第11話 打倒! 秀忠
空想時代小説
前回までのあらすじ
小田原・石垣山にて政宗の影武者が秀吉を殺める。その後、秀吉軍は崩壊し、北条家が巻き返す。政宗は佐竹を攻めると見せかけて反転し、宿敵相馬氏を倒す。以後、北の南部氏、越後の上杉氏を降伏させる。上杉氏に従属していた真田氏も降伏してきた。その真田氏の上州の領地を欲した北条氏と戦い、これを滅ぼす。ここに政宗の東国支配が決まる。10年後、西国を支配した徳川家康が幕府を開き、政宗は副将軍となり、家康とは不干渉同盟を継続することとなる。だが、家康が亡くなり、秀忠の時代となると不穏な動きが見られるようになった。
1616年10月、稲刈りが終わったところで、信州で戦が始まった。政宗勢は、真田信幸(50才)・信繁兄弟(49才)・上杉景勝(57才)・直江兼続(56才)・色部顕長の甥である色部光長(29才)・黒川晴氏の養子である黒川義康(35才)の総勢2万5000。徳川勢は水野勝成(52才)と石川康長(50才)の3万。場所は善光寺平の川中島である。かつて上杉謙信と武田信玄が激闘をかわした場所である。今回は、政宗勢が受け手、徳川勢が攻め手の陣形である。上杉景勝は養父謙信とは逆の立場になり、複雑な心境であった。
騎馬隊は政宗勢が優勢だったが、鉄砲隊は明らかに徳川勢が圧倒していた。馬防柵はないが、槍隊の槍ぶすまの奥に鉄砲隊が控え、そこから撃ってくる。弓隊の攻撃には政宗勢と同じように盾で防いでいた。一進一退の攻防が続き、一日が過ぎた。
その夜、政宗勢は上杉景勝(57才)を中心に評定を開いた。政宗から総大将の命を受けている。景勝は無口な人間で、めったに口を開かない。評定をすすめるのは、直江兼続である。
「おのおの方、この戦、どうされる?」
皆、沈黙の時を過ごした。しばらくして、真田信繁が口を開いた。
「拙者が決死隊で中央突破をはかり、敵の本陣へ向かいまする」
「馬鹿な。すぐに取り囲まれるではないか! 無駄死にじゃ」
兄の信幸が叫んだ。
「取り囲まれれば、敵の陣形が崩れまする。そこを右と左から騎馬隊が突っ込みます。幸いに明日は霧がでると地元の者が話しております。この時期には、朝もやの日が多いのは確かです」
「霧がでれば、敵の鉄砲隊はあまり役に立たんな」
兼続の言葉に皆うなずいた。兼続は景勝と相談して、内諾を得たのだろう。陣ぶれを話した。
「では、明日の陣ぶれを発表いたす。先陣は信繁殿の騎馬隊3000.その後ろに、信幸殿の弓隊3000。右の騎馬隊は光長殿の2000。左の騎馬隊は義康殿の2000。敵の陣形が崩れたら、攻撃していただきたい。後詰めには拙者の5000。本陣は1万。景勝殿は、敵が突進してきたら、鉄の軍配団扇で守っていただきたい」
「わしは信玄役か!」
景勝の素っ頓狂な声に、一同は笑いを隠せなかった。ふだん無口な景勝が見せた意外な姿であった。政宗勢の意気は盛り上がっていた。
翌朝、予想どおり朝もやがわいた。信繁の騎馬隊は静かに前進した。昨日と同じ陣ならばよいが、陣どりを変えていれば不利となる。草の者(真田の忍び集団)も朝もやが濃くて、陣どりはわからなかったとのこと。敵が見えたら、一斉に突っ切る作戦である。四半刻(30分)ほどで、敵が見え始めた。昨日と同じ陣どりである。信繁の合図で、騎馬隊は一斉に突進していく。敵は急に攻められたのでうろたえている。鉄砲隊は、まだ火縄に種火が付けられていなかったようで、一発もとんでこなかった。矢が何本かとんできたが、動きの速い騎馬隊相手では命中率が低い。3万の軍勢の中央部にくさびが打ち込まれた状態になった。
本陣の水野勝成(52才)は、そそくさと逃げだしていた。鶴翼の陣の弱点は、中央部の本陣がさらされていることである。本来は、敵を囲い込む陣形だが、今朝のような朝もやの中では動きがつかめず、機能しなかった。ましてや、騎馬隊の後ろから弓隊がやってきて、鉄砲隊がねらいうちされている。撃ち返しても盾で防がれる。また左右からも騎馬隊に攻められ、3万の軍勢はばらばらになった。総大将の水野勝成が逃げだした今、てんでに逃げるしかなかった。1刻(2時間)ほどで、戦闘は終わった。川中島には3000ほどの死体が転がっていたが、ほとんどが徳川勢であった。朝もやを予見し、決死の突撃をした信繁に賞賛の声があがっていた。しかし、これで終わりではない。松本城を奪い返さなければならないのだ。
川中島で戦闘が行われている頃、小田原城でも戦いが始まっていた。攻める徳川勢は、本多忠政(41才)の3万である。忠政は、猛将本多忠勝の嫡子で桑名藩藩主である。守る政宗勢は、2代目片倉小十郎(31才)の1万。政宗本隊から1万が援軍としてやってきている。合わせて2万。茂庭綱元(67才)・葛西俊信(37才)・針生盛信(63才)・桜田玄蕃(41才)らが入城している。この後、下野の成田泰之(50才)が援軍として駆けつけることになっている。
小十郎は、小田原城で決戦をすることにした。この日のために、いろいろな仕掛けをしてきたのだ。城壁は三重の壁となっている。段になっており、一の壁が一番低い。徳川勢3万は、まずこの一の壁にとりついた。梯子をかけると、上から長いさすまたで、梯子が倒される。鉤のついた縄をかけても、縄が切られるということで、なかなか壁を乗り越えられなかった。しかし、亀甲車で門を打ち破ると、一の壁の守りはなくなった。その代わり、門の中に入った兵士は、周りの櫓から一斉に鉄砲で撃たれた。門の中が桝形になっており、狙い撃ちされたのである。それでも、壁を乗り越えた徳川勢が多くなると、政宗勢の鉄砲隊は二の壁の内側に移動していった。壁を乗り越えた徳川勢の兵士たちは悲惨だった。いたるところに落とし穴があるのだ。そこには逆茂木があり、飛び降りた兵士にグサッと突き刺さった。それでも通路のところに兵士が列をなして、二の壁にとりついた。
二の壁でも徳川勢は鉄砲や弓矢の攻撃を受ける。今度は狭間からの攻撃で、徳川勢が下から撃ってもあたらない。壁にくっついて死角に入るのが関の山だった。そこに櫓の下の石落としから大きめの石が落ちてくる。多くの兵士がここで亡くなった。徳川勢の一次攻撃は、ここで終わった。徳川勢は2万まで減っている。これで政宗勢と徳川勢は互角となった。
2日目、徳川勢は新兵器の大砲3門を出してきた。射程距離は2町(200mほど)である。城外の丘から撃っても本丸まで届く。夜明けとともに、大砲が撃たれ、二の門の桝形の櫓が狙われた。命中精度は高くないが、どこかには当たる。政宗勢はそこから退くしかなかった。二の門も亀甲車で破られた。その向こうには、高い三の壁がそびえている。武者返しがついていて、上にいけばいくほど傾斜がきつくなってくる。三の壁の前は馬の訓練場になっており、広場になっている。そこに1000人ほどの徳川勢がなだれこんだ。と、その時ドーンと大きな音がしてゴロゴロと三の壁が崩れ始めた。石垣の石が踊っているように兵士をおそった。あっという間に多くの屍ができた。それは地獄絵図だった。千人殺しといわれる石垣である。ここで、徳川勢が退いた。残りは1万5000。半数になり、徳川勢の兵士の中には厭戦気分が蔓延し始めていた。
夜分、徳川勢は背後から夜討ちを受けた。政宗勢の援軍かと思ったが、背後には石垣山城の本多忠政の本陣があり、そこに5000の兵がいる。政宗勢の援軍とは考えにくい。半刻(1時間)ほど戦い、大砲3門を使用不能にすると、政宗勢は退いていった。城内に逃げたわけではない。徳川勢の先陣と本陣の中間に逃げていったのである。徳川勢はキツネにつままれていた。実は政宗勢は坑道を掘っていたのである。出入り口は容易にわからないようになっていた。たとえ徳川勢が発見して入ってきても、その際は坑道をつぶす仕掛けもされていた。
3日目、政宗勢に援軍の成田泰之の5000がやってきた。小田原城からも裏手の馬出し門から騎馬隊が出てきて、徳川勢の先陣はほぼ壊滅状態になった。
石垣山城に陣取っていた本多忠政は、徳川領の山中城へ退いていった。それで小十郎らはお互いの健闘をたたえ合った。自分たちの損害は、城の損壊だけで兵士を失うことは少なかった。圧勝だった。
松本城も政宗勢のものとなり、その知らせを受けて、政宗は
「これで振り出しにもどった。これからは、こっちが攻める番だぞ。待ってろ秀忠」
意気込む政宗であったが、残念な知らせもあった。鉄板を張り付けた安宅船が三浦沖で横波を受け、沈んだのだ。湾内では、波がおだやかで問題はなかったが、外海に出ると波が荒く、鉄板で重くなった船は復元力が少なくなっていたのである。これで尾鷲攻めは、しばらく日延べとなった。
数日後、幕府からは今回の件は、水野勝成と本田忠政の勝手な戦いであり、副将軍とともに裁きを行いたいので上洛してほしいという書状が届いた。本多忠政は伊勢桑名城主なので、それもあり得るが、水野勝成は備後福山城主である。信州からほど遠い地から幕府に無断で進軍できるわけはなく、勝手な戦いというのは誰がみても欺瞞とわかった。
政宗は、心労がたたり、寝込んでいるので、上洛できぬ。と返書を書いておいた。その後も正月にあたり、年に一度の話し合いをもちたいという書状もきた。その際には、今回の不可侵同盟を破った二人の武将にどういう裁きがされたのかを知りたいという返書を書き上洛しなかった。その後も何度も上洛の誘いがきたが、その度にのらりくらりとかわしていた。
江戸城は、警備が強化された。警護の兵は寝ずの番をするようになり、屋根裏には忍びよけのしかけがされた。もちろん政宗配下の忍びも多くの場所に配置されている。政宗は毎晩寝る場所を変えた。それでも、敵の忍びはやってきた。昼に神楽の会があり、その集団に紛れ込んでいたのである。その際に、政宗の顔を確認し、一人の忍びが城内に残り、政宗の寝所をさぐりあてた。丑三つ時に10人ほどの敵の忍びが現れた。二手に分かれ、一団は警護の兵を音もなく仕留めた。もう一団は、政宗の寝所の屋根裏に忍んだ。今まさに板をはずして、政宗におそいかかろうとした時に、政宗の警護の忍びが異変を感じ、呼び笛をならした。
政宗はとっさに飛び起き、刀の鞘で敵の初太刀を受けた。隣室で寝ていた警護の武士も飛び起きて、忍び集団と斬り合いが始まった。灯りがないので、黒装束の忍びはわかりにくい。警護の武士たちが一人一人倒れていく。政宗は走った。二人の警護の武士が付いてきている。外の警護の武士はすでに倒されたようだ。まずは灯りのある場所へ。政宗は、今までにないくらい急いで走った。城内は曲がり角が多く、曲がった先に敵がいるかもしれぬが、このままではやられる。と政宗の感性が訴えている。すると、先にぼんやりと灯りが見え、政宗はそこに飛び込んだ。愛姫の部屋である。そこにはお付きのくの一に守られている愛姫がいた。
「お屋形さま!」
愛姫の叫びがとんだ。政宗はハーハーと息を切らしながら、
「敵の忍びじゃ。武者どころへ走れ!」
と一人のくの一に命じた。政宗に付いてきた警護の武士は敵と斬り合っているのか、刀のふれあう音だけが聞こえる。しばしの静寂が政宗と愛姫を包んだ。二人で、肩を寄せ合っているのは何年ぶりだろう。二人の間には、五郎八姫(いろはひめ22才)と忠宗(16才)の二人の子がいる。愛姫にとっては、高齢出産で、その後政宗とは仲睦まじく夜を過ごすことがなく、久しぶりに寝所に政宗が来てくれたことに喜びさえ感じていた。政宗は、そんなことはおかまいなしに、荒い息をはきながら刀を構えている。そのうちに、武者どころから多くの武士がやってきて、政宗を守った。半刻(1時間)ほどで、騒動はおさまった。いたるところに警護の武士が倒れている。敵の忍びは5人倒れていた。いずれも舌をかむか、のど元をかききるかで、絶命していた。つかまって黒幕を知られないためである。だが、徳川の忍び集団服部半蔵正就(40才)の配下であることは明白だった。
朝になり、武者どころの一室で、警護主任の桜田玄蕃(41才)が割腹していた。政宗は、それを見て、手を合わせながら
「死ぬこともなかったのに・・・・隠居するだけでよかったのに」
ともらした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます