第9話 徳川幕府成立

空想時代小説

 前回までのあらすじ

小田原・石垣山にて政宗の影武者が秀吉を殺める。その後、秀吉軍は崩壊し、北条家が巻き返す。政宗は佐竹を攻めると見せかけて反転し、宿敵相馬を倒す。翌年、北の南部家を降伏させ、その次の年には越後の上杉家を屈服させる。そして上杉に従属していた真田家も追随してくる。その真田家の上州の領地をねらう北条家と争うことになり、いくつかの戦を経て、北条家を倒す。これで東国は政宗のものとなり、江戸を本拠地とすることになったのだ。


 1603年、政宗(36才)が江戸に城を建てて10年がたった。江戸は大きな城下町として発展しつつあった。政宗は、関東の農民には3割の税を課した。通常は、5割なので、割安である。しかし、毎年11月から3月までの間の1ケ月間は、江戸の町作りの労役を課した。主には土木作業である。

 一番先に手をつけたのは用水である。江戸の井戸水は塩辛くて、飲めるものではなかった。荒川や多摩川の上流から水路を引いて、江戸の町にはりめぐらした。

 次に、湿地帯の埋め立てである。川底をほって、土砂をとり、それを堤防や湿地帯の埋め立てに使った。江戸城の周りからどんどん広げていった。

 第3は、町人町の整備である。楽市楽座を各地に設け、一箇所に固まらないようにした。また、職人町を作り、専門の職人が集まり、組織として動けるようにした。町人は無税であったが、店には税をかけた。店や蔵の広さで税をかけたのである。多くの人々が江戸にやってきて、城下町を作った。

 さて、この10年間で、日の本の情勢はだいぶ変わった。5年前に関ヶ原で大きな戦があり、徳川・前田連合軍が石田・宇喜多連合軍に勝った。首謀者石田三成(当時38才)は斬首。宇喜多秀家(当時25才)は離島への流刑となった。そして3年前、大坂で戦があった。徳川方と旧豊臣勢の戦いである。徳川方には、前田・黒田・細川がついた。黒田官兵衛は亡くなり、嫡子の黒田長政(35才)が後を継いでいた。旧豊臣勢は、豊臣秀頼(当時10才)福島正則(当時40才)加藤清正(当時39才)長宗我部元親(当時62才)毛利輝元(当時48才)である。豊臣勢は、確固たる当主がおらず、ばらばらの戦いとなり、総力では勝っていたが敗れてしまった。敗れた諸将は、自刃するか、斬首された。秀頼は母淀君とともに自刃においやられた。父秀吉の容貌というよりは、信長の少年時代に似ていたという。家康は対面した時に、その顔を見て震えたらしい。自分自身が尾張で過ごした時の三法師(信長の幼名)を思い起こしたという。家康はそれで秀頼に恐怖を感じたのかもしれない。

 徳川家康(60才)は、これで西国のほとんどを手中にしたのである。そして3年後の今年、徳川家康は朝廷の許しを得て、幕府を開設することとなった。大坂城が本拠地である。

 5月に、全国の諸将が集められ、将軍宣下の儀式が京都の二条城で行われることになった。政宗にも、その召還状がやってきた。政宗は小十郎(46才)を呼んで、対応策をたてた。

「小十郎、どうする? お主にも召還状はきていると思うが・・」

「確かにきておりまする。家中の1万石以上の大名にはすべてきているようです」

「だろうな。わが家中だけで20名はいるな」

「一大勢力です。わが家中が行かなければ、また戦乱の世になりまする。それはだれものぞまぬこと」

「徳川とは不可侵同盟を結んでおる。戦はしかけられぬ。しかし、徳川の臣下となるのは合点がいかぬ」

「徳川とは対等の関係。上下はないはず。しかし、お屋形さま、ここは思案のしどころです。家康殿が幕府を開くことを認めるかわりに、東国の自治を認めさせるのです。今までは不可侵同盟でしたが、今後は不干渉同盟です」

「不干渉同盟か、おもしろい同盟だな」

政宗は、笑みをもらした。

「そこで、家康殿に我が方の外国貿易を認めさせます」

「おっ、船ができたか?」

「わが領地に横須賀という天然の良港があります。そこで、外洋にでられるほどの大船を造ることができるようになり、今造らせているところです。先日、漂流して三浦半島にたどりついたイスパニア(スペイン)の船員が、技術を教えてくれました。その者をルソン(フィリピン)まで届ける約束で、船を造っております。このことを家康殿に認めていただければ上洛し、幕府開設をお祝い申す。というのです。外国貿易は幕府の権限と今まではされてきました。しかし、島津は琉球を通じてシナ(中国)と貿易をしております。島津が認められて、わが家中が認められぬ道理はありません。幕府は認めることでしょう。そして、これをきっかけに東国の自治を認めさせるのです」

「損して得取れ。ということだな。家康がどう動くか、見ものだな。早速、文を書こう」

早速、政宗は家康に返書を書いた。要旨は次のとおりである。

「・幕府開設お祝い申しあげる。

 ・以下のことをお認めいただければ上洛し、臣下の礼をとる準備がある。

   今までの不可侵同盟を維持し、お互いの政策に異を唱えぬこと。

   わが家中の外国貿易を認め、西国の港に立ち寄ることを疎外せぬこと。

   年に一度お会いし、日の本の平安について話し合うこと」

小十郎は、この文を読み、ニヤッと笑みをこばした。日の本の平安というところに、戦はせぬという意志を示し、戦が起きれば、そちらのせいだということを示したからだ。家康は、自分からは攻めてはこない。関ヶ原にしても石田方が先に動いたし、大坂での戦も福島正則(当時40才)が秀頼というよりも淀君を動かして、諸将を集めたから始まったことである。

 政宗は、頭は下げるが、実は取るという姿勢を示したのである。このことは、家中に属する諸将にも知らされた。幕府開設に異議を唱える者がいれば、また戦乱にもどるやもしれぬからである。

 数日後、この返書を受け取った家康(60才)は、顔を真っ赤にして、側近の本多正信(65才)を呼んだ。

「政宗がこんな文をよこしたぞ」

と、その返書を正信に投げつけた。正信はそれを読んで、一呼吸おいてから話し始めた。

「上様、これでは政宗を討つわけにはいきませんな。日の本の平安は、だれもがのぞむこと。我らとてそれは同じ」

「だが、これでは日の本に二つの国があるということではないか!」

家康は、将軍としての威厳をもちたかったのである。

「上様、ここは政宗に副将軍の位を与えてはいかが?」

「なぬっ? 副将軍か・・・・? たしかに、それならば諸侯は政宗が家康の下についたと思うわな。いざという時は、その名目で呼び出せるな。よし、それで政宗に文を出せ」

早速、早馬で届けられた。政宗は小十郎を江戸に呼び出し、

「小十郎、このような文が家康からきたぞ」

その文を、小十郎に丁寧に渡した。小十郎は、その文を読んで

「お屋形さま、副将軍就任おめでとうございます」

と、笑みをこぼしながら話した。

「うむ、ところで副将軍とは何をするのじゃ?」

「何も。しいて言えば、将軍に頭を下げることかと」

「だな」

と言ったところで、二人は大いに笑った。自分たちがだした条件が、頭を下げることだけで、かなったからである。

 5月吉日、京都の二条城において、将軍宣下の式が行われた。参列した諸侯は100名ほど。その内の30名ほどは東国の大名であった。西国の大名は、新参か、転封されたばかりで、まだ落ち着いた状態ではなかったが、東国は治まってから10年がたち、皆それぞれに風格をもっていた。政宗(36才)は、副将軍として最上位の位置に座った。近くには政景や成実もいる。皆、胸をはって参列していた。家康が、皆の前で話を始めた。

「皆の者、この度、朝廷より征夷大将軍をこの家康が受けることとなった。今後は、皆の力を合わせて、日の本の平安に尽くそうぞ」

「ははー!」

と政宗が真っ先に声をだして、頭を下げた。諸侯もそれに習った。家康は、その様子を見て、満足げであったが、一人だけ苦虫をかんだような顔をしている者がいた。家康の三男秀忠(24才)である。次期将軍となる秀忠にとっては、政宗の行動は気にくわないことばかりであった。

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