第3話 南部攻め

空想時代小説

 前回までのあらすじ

 石垣山で政宗(影武者)が、秀吉を殺し、小田原城を包囲していた秀吉軍は崩壊していった。その後、政宗は北条とともに佐竹を攻めるが、そこは北条に任せ、宿敵相馬を攻める。強敵の騎馬隊をせん滅し、中村城を奪い取ることができた。


 会津に政宗勢がもどり、冬も近くなってきたので、奥州の地はしばしの休息となった。政宗勢は半分ほどが専従の武士団であるが、残りは半農半士だったので、稲刈りと田植えの時期は領地へもどる必要があった。そこで、政宗は信長と同じように専従の武士団を作るべく、冬の間に募集をかけ、諸国から浪人や野武士が集まってきた。中には、相馬の元家来もいた。彼らは馬術に長けているので、黒川晴氏(68才)のもとに預けられた。それと政宗が重要視したのは、情報源である。そのために多くの修験者を採用した。彼らは諸国をめぐり、事情に精通しているからである。見込みのある者は、忍びの集団である黒はばき組に入れた。

 この冬だけで3000の兵が集まった。

 正月に、新年祝いということで、主だった家臣が集まった。祝宴の後、政宗(24才)は、成実(23才)と小十郎(34才)を自室に呼んだ。政宗の自室は狭い。三畳ほどの小部屋である。そこに文箱と書棚がある。政宗は筆まめで、諸大名や家臣に文を書くことが多かった。

「さて、今年の戦略じゃが、お主たちの考えを知りたい」

「それは決まっていること。敵は越後の上杉じゃ」

成実が迷うことなく答えた。

「小十郎はどうじゃ?」

「上杉は最上殿(50才)がにらみをきかせておれば、こちらには来ますまい。景勝殿(35才)は、謙信公と同じで他領の侵略の意志はありませぬ。たとえ、あったとしても関東管領として北条を攻めるでしょう」

「たしかにな。それで我々はどう動くのじゃ?」

政宗は、小十郎の言いたいことはわかっていたが、一応言わせてみた。政宗に押しつけられたというのでは軍師としての役割が果たせないからだ。成実は、自分の考えが即否定されたので憮然としている。

「敵は、南部信直(50才)です。政宗領の北を時々脅かしておりますし、先の小田原攻めの際にも、真っ先に秀吉になびき、秀吉の命しだいで政宗領に攻め込む手はずでした。しかし、南部はのどもとに九戸政実(55才)と津軽為信(41才)がおります。うかつに政宗領に攻め込む余裕はありませぬ。そこで、九戸と津軽に使いをだし、南と北から挟撃します。九戸と津軽には、盛岡以北の南部領を分け与えると伝えれば、食いついてくるでしょう。こちらは、盛岡以南の平野部を取れば、大きな領土拡大となりまする。もしかしたら降伏してくることも考えられますが、その際は盛岡周辺のみを残す条件でいいかと思います」

「うむ、どうじゃ成実?」

「妥当な考えじゃな。だが、花巻の北信愛(きたのぶちか)(68才)は強敵ぞ。我らは、花巻城攻めということか?」

「南部信直は、北からの敵を相手にすることになろう。となると敵の勢力は1万ほどか?」

「だと思われます」

小十郎が相づちをうった。

「さすれば、補充の兵を合わせての1万3000でいけるかの?」

「雪がとけて、田植え前に出陣すれば、敵は兵の応召が間に合いませぬ。こちらは、途中の大崎義隆(43才)・葛西晴信(55才)・和賀義忠(36才)を崩していけば、2万まで膨れる可能性があります。どれも5万石以下の小大名ですから、お屋形の文ひとつで、こちらになびくと思われます。本領を安堵するといえば、ついてくるでしょう」

小十郎の先読みは政宗と同様であった。

「よし、今年はそれでいこう。成実、補充兵の錬兵を頼むぞ」

「任せておけ」

「小十郎、兵糧の確保と陣ぶれの計画をたてよ。わしは、文を書くことに専念いたす」

「はっ、わかり申した」


 政宗の文攻勢は功を奏した。大崎氏・葛西氏・和賀氏の3氏は即座に味方するの返書をよこした。九戸政実と津軽為信も政宗の誘いにのってきた。皆、農民兵が主体なので、専従兵だけで1万3000もいる政宗勢には太刀打ちできないと判断したからだろう。それに本領安堵に南部領の割譲となれば、利があると考えたのだろう。南部攻めに加わることにはなるが、それとて優位な戦いと思われる。犠牲は少ないと考えたに違いない。3氏には目付として、政宗の家臣が派遣された。いざという時に離反されては困るからである。大崎氏には川島宗泰(29才)、葛西氏には針生元信(38才)、和賀氏には遠藤盛胤(36才)が派遣された。この3人がつなぎと監視の役目を果たすことになる。後の話であるが、後継ぎの問題や、謀反の疑いで藩主蟄居になる。小藩ゆえの逃れられぬ定めである。

 3月末、政宗勢1万3000は会津を出立した。まだ雪のある峠もあったが、専従兵の強みで、だれも文句を言わなかった。手柄をたてることだけを考えているからだ。

 4月初めには、大崎氏の名生城(みょううじょう)に入った。ここは、平安時代からある古い城で、周りが林と土塁に囲まれている。その周辺には田畑が広がっており、知らない者は城とは気づかないようになっている。

 翌日には、築館城(つきだてじょう)に入り、ここで葛西勢と合流した。勢力は1万7000に膨れ上がっていた。もう少し来るかと目算していたが、農民兵は集められなかったようだ。

 4月半ばに、花巻の手前の黒沢尻(くろさわじり)に着いた。ここから高台に入る。和賀氏とはここで合流した。合計1万8000。

 花巻城は三方が川に囲まれた高台にある。20間(18m)ほどの石垣があるなかなかの堅城である。堀をわたっても、石垣を登ることは困難である。大手門からしか攻める手はないと思われた。黒はばき組の者の知らせでは、城内には8000いるとのこと。5000が武士で、あとの3000は徴用された農民や町民とのこと。鉄砲は100挺ほどしかなく、ほとんどが弓隊だ。ここで陣ぶれが発せられた。

「先陣は、成実殿の弓隊2000。敵も弓で応戦してくると思われます。しとめることよりも、敵に矢を使わせることに主眼をおいてくだされ。兵の半数には弓よけの盾を持たせまする。

 弓隊の後ろには、綱元殿(42才)の鉄砲隊500が控え、敵の鉄砲隊が出てきたら撃ち返します。これも敵に弾を使わせるのが目的でござる。弓隊が持っている盾をこの時にも使いまする。

 黒川晴氏殿(68才)の騎馬隊2000は交替で堀沿いを走ってくだされ。さすれば敵の守りは広がり、大手門の守りが薄くなります。矢はとんでくるかもしれませぬが、鉄砲があたる距離ではないと思われます。

 夜になったら、敵の矢玉も少なくなると思います。こちらの黒はばき組の者が火矢をかけます。さすれば城内は混乱すると思われます。

 からめ手の馬出し門から出てくる敵もいると思います。そこに大崎殿と葛西殿に伏せていただき、弓をうちかけていただきたい。全滅させる必要はありませぬので、無駄に追うことは無用でござる。

 さて、大手門ですが、秘密兵器の攻城槌を用いまする。桑折政直殿(32才)率いる100で攻城槌を動かします。どんな兵器かは、当日ご覧あれ。門が開いたら成実殿の2000が先陣で切り開いてくだされ。2陣は和賀殿の1000。3陣は留守殿(42才)の5000です。逃げる敵は追わず、また農民や町民で武器をもっていない者は見逃してやってくだされ。花巻城陥落の際には、和賀殿に統治をお任せいたします」

「なんと、領地が倍になるではありませぬか。嬉しきことでございまする」

和賀氏は涙を流さんばかりに喜んだ。

「山地が多い和賀殿にとっては、花巻は肥沃な土地。心してあたられよ。大崎殿と葛西殿にも領地に近い南部領を割譲する用意がありまする。ぜひ、励まれよ」

「ありがたき幸せ」

と二人の大名は頭を下げた。元々は、消極的な参戦だったのだが、領地拡大となる可能性があるので、少し色気をだした。しかし、後に得た領地はスズメの涙程度であり、その不満が謀反の疑いと受け止められることになるのである。

 翌日、夜明けとともに、戦闘が始まった。成実隊は盾で守りながら矢をはなっている。カンカンと敵の矢が盾に突き当たっている。時々、倒れる真似をしている兵がいた。敵を調子づかせて、矢を使い果たさせる策のひとつである。実際に矢で死んだ兵はほとんどいなかった。

 予測と違ったことがひとつあった。堀沿いに走る黒川晴氏(68才)勢の騎馬隊に敵の騎馬隊がおそいかかってきたのである。からめ手の馬出し門に向かっていた大崎勢と葛西勢はまだ到着していなかった。この失態が政宗の勘気を被り、わずかな領地の増加にしかならなかったのである。しかし、政宗と小十郎は二人の失態を予見していたともいえる。山林の中をすすむのは、並大抵のことではないのである。幸いにも小競り合い程度で済み、騎馬隊の被害は少なかった。

 夕刻になり、いよいよ秘密兵器の攻城槌の登場である。大八車に槌を乗せているのは前回と同じだが、大八車の上に盾で屋根がかけられ、石落としや油攻めにも耐えられるようになっている。まるで、亀がすすんでいる感じだった。後に亀甲車と名付けられた。数度の攻城槌の攻撃で大手門は破壊された。成実隊がどっと入城し、弓矢で櫓に陣取っている敵をやっつけていった。敵は矢が少なく、すぐになくなる状態だった。鉄砲隊は弾を使い果たしたのだろう。すでに退却していたようである。

 成実隊の後に、和賀勢がなだれこんでいった。刀や短槍で敵をなぎ倒している。長年、南部勢に領土を荒らされているので、恨み骨髄なのであろう。留守隊の5000が入城したころには、あらかた敵はいなくなっていた。

 その夜、祝宴をかねた評定が行われた。政宗からねぎらいの言葉が諸将にかけられた。二人の将だけは別だったが・・・。

「各々、ご苦労であった。もっと苦戦を想定していたのだが、小十郎のたてた策がほぼうまくいき、こちらの被害はごくわずかであった。本日は、ゆっくり休んでくだされ。ただ、黒川晴氏の騎馬隊に被害がでたということだが、それはどういうことじゃ?」

「はっ、手はずどおり堀沿いを走っておりましたら、早々に敵の騎馬隊に遭遇しました」

「馬出し口には、弓隊がいたのではないのか?」

「政宗殿、申しわけありませぬ。私と葛西殿は土地に不慣れなゆえ、山で迷うてしまい、開戦までに馬出し口に到着できませんでした」

大崎義隆が弁明をした。

「大崎殿と葛西殿は、敵が馬出し口から出てきても、ろくに矢を放たなかったという報告を聞いたが・・・?」

「それは小十郎殿が、評定で無駄に追うことはないと言われたから、一目散に逃げていく敵には矢を放たなかっただけでござる」

大崎義隆は苦しい弁明をした。

「それは、全滅させる必要はない。ということで矢を放つなということではなかったと思うが、小十郎いかが?」

「たしかにお屋形のおっしゃるとおりです」

小十郎は、はっきりと答えた。大崎氏と葛西氏は矢を放つことで、敵が反転してくることを恐れたのである。そのことを諸将はわかっていた。皆、自分の身がかわいいのである。

「まあよい。今回は勝ち戦ゆえ、大きな責めは問わぬ。南部攻めが終わってからの恩賞を皆の者、楽しみにしていなされ」

この言葉で、諸将は酒を酌み交わした。が、大崎義隆と葛西晴信は首の皮一枚つながった気分で、酒を楽しむ気にはなれなかった。

 翌日、政宗の陣に北の浄法寺での戦いの結果がもたらされた。津軽・九戸勢の連合軍が南部信直率いる1万の敵を打ち破ったとのこと。敵は盛岡城に逃げ込んだようだ。ここで政宗得意の文攻撃である。降伏すれば、盛岡周辺の5万石を安堵するという条件を提示した。この条件をのまねば、城内にいる者を皆殺しするという脅かしの文も添えておいた。

 政宗の軍が花巻を出て、盛岡の手前まで来た時に、返書がきた。条件をのむということであった。これで、奥州はほぼ政宗の手中に入った。

 会津にもどり、各将への恩賞配分がなされた。新しく領土となった胆沢の地は、桑折政直(32才)に与えられた。北上川沿いの肥沃な土地であるが、時に洪水になることもあり、気をつかう土地である。しかし、桑折政直にとっては、5000石から2万石の大名なみの領土となり、大出世である。桑折政直の旧領は、保土原行藤と葛西氏と大崎氏に分け与えられた。保土原はともかく、葛西氏と大崎氏は1000石ほどの加増で不満だった。戦にかかった経費を考えれば、相当の赤字なのである。

 和賀氏には花巻領が与えられた。1万石が2万石になり、笑いが止まらない状況であった。

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