第2話 相馬攻め

空想時代小説

 前回のあらすじ

 政宗(影武者)は、小田原・石垣山で秀吉を殺める。それで秀吉軍は崩壊。北条勢が巻き返しをはかることとなった。


 政宗(23才)は、秀吉死すの知らせを受けて、2万の大軍で佐竹攻めをしていた。北条と共同戦線を張り、北と南から挟撃する手はずとなっていた。政宗勢は、敵の太田城に向かう途中、田村氏や岩城氏らを味方に引き入れ、勢力は3万までふくれ上がっている。北条勢も水戸城までやってきている。佐竹勢は1万の軍勢で籠城策をとった。救いは、上杉景勝(34才)の援軍である。


「小十郎(33才)、最上のおじ御からは知らせがまだ来ぬか?」

「はっ、なかなかのご仁ゆえ、様子を見ていらっしゃるのだと思います」

「では、母を通じて、羽後攻めの際は味方すると伝えよ。さすれば、上杉の動きに備えるぐらいは動くであろう。最上のおじ御は妹に弱いからの」

小十郎は心の中で、(政宗の母義姫が強すぎる)と思っていたが、口にはしなかった。

 最上のおじ御とは、最上義光(よしあき・44才)のことである。義光の妹、義姫は政宗の母である。父輝宗が亡くなった今は仏門に入り、実家の山形に帰省している。気性の激しい女性で、輝宗は側室をもつことはできなかった。

 7日ほどで、最上勢が上杉との国ざかいまで、兵をすすめたという報が入った。

「小十郎、これで佐竹は孤立じゃ。我らは、宿敵相馬を攻めるぞ」

「お屋形さま、ここはどうされるので?」

「佐竹は、北条にくれてやれ。どうせ、統治に時間がかかる。北条は領土を得ても、災いを得るようなものじゃ。岩城と田村には、動かんでいい。見ておれ。とだけ伝えておけ」


 政宗勢2万は、常磐道を北上した。相馬勢は佐竹氏が負けるまでは、政宗勢が攻めてこないと思っていた。

「相馬を攻めるには、あの強力な騎馬軍団を止めなければならぬ。小十郎、何かいい手はないか」

「はっ、ここは信長公の長篠攻めを参考にすればと思っております」

「鉄砲か、信長公は3000挺だったが、こちらはせいぜい300だぞ」

「長篠の設楽が原は横幅が広く、多くの鉄砲が必要でした。しかし、狭い谷間があれば、300でも可能と思われます」

「どこぞ、いいところがあるのか?」

「相馬領の南、岩城領の北端に富岡という集落があります。そこの近くの浜街道に4町(400m)ほどの谷間がありまする。300挺の鉄砲を並べるにはちょうどよいかと」

「しかし、鉄砲だけでは弾込めに時間がかかるぞ。そのスキに騎馬で攻めてこられたら、おわりではないか」

「はっ、そのために馬防柵を二重に建て、その前に空堀を造ります。そして、街道の脇には落とし穴を掘ります。さすれば、敵の騎馬隊は一直線にしか進めません。そこで、鉄砲隊を赤と青のふたつに分け、赤が射撃の際は、青が弾込め、というように時間差で攻撃します。信長公は三つに分けたということですが、二つでも充分と思われます」

「うむ。もし、敵がその浜街道を来なければどうする?」

「そこは、成実殿(22才)の役割でござる。成実殿の騎馬隊が攻め込んで、あとは敵を引き連れてもどってくればいいのです」

「よし、わかった。評定じゃ」


「皆の者、いよいよ宿敵相馬をやっつける時がきた。敵は5000。数ではこちらが勝っているが、敵には有力な騎馬隊がおる。その騎馬隊を封じ込める策を小十郎が話す。そして、おのおののつとめを果たせよ」

「オー!」

ときの声を受けて、小十郎(33才)が細かい策を伝えた。

「この戦いは、信長公の長篠の戦いを思い起こしていただきたい。まず、夜分に富岡の北方の谷間に馬防柵を建てます。これには留守政景殿(41才)と鈴木元信殿(35才)の合わせて5000があたります。6尺の柱2500本を用意してくだされ。

 河東田殿(30才)と川島殿(28才)の合わせて2000は、馬防柵の前に空堀を掘ってくだされ。両端は馬出し口になりますので、そこは開けてくだされ。

 遠藤殿(35才)の2000は、街道沿いに落とし穴を掘ってくだされ。敵の騎馬隊を街道のみに集中させる大事な策でござる。敵に見つからぬようにお願いいたす。

 成実殿(22才)の2000は、その警護にあたっていただきたい。翌日の攻撃の際には騎馬隊1000で、先陣を果たしていただくことになります。しかし、無駄に攻め込むことはせずに、敵を挑発したら引き返していただきたい。馬防柵のところまで連れてきていただきたい。

 国分殿(37才)と大内殿(45才)の2000は、右の山に伏せていただき、敵が攻めてきたら弓をうちかけていただきたい。

 針生殿(47才)と保土原殿(52才)2000は左の山でござる。

 当日は、成実殿の騎馬隊1000が敵を誘いこみます。

 右翼は国分殿と大内殿2000。

 左翼は針生殿と保土原殿2000。

 鉄砲隊300は拙者が指図します。

 馬防柵の右は茂庭殿(41才)の1000,左は原田殿(42才)の1000です。守りに徹してくだされ。

 夜に働かれた面々は後詰めでござる。万が一、山を迂回してくる敵がいた場合は対処していただきたい。

 明日は、相馬の騎馬隊をせん滅し、明後日は総攻めでござる。

 黒はばき組(忍びの集団)は、敵の動きをさぐり、こまめに伝えよ。 以上」


 陽が落ちて、谷間に馬防柵を造る作業が行われた。4町の幅におよそ5尺(150cm)ごとに柱が300本建てられた。二重なので、600本。敵から見ると柱の間隔は5尺の半分となる。馬はもちろんのこと、鎧をつけている武者も通り抜けは容易ではない。材木の残り1900本は、梁や逆茂木(斜めに向けた馬除けの杭)に使われた。

 大変だったのは、落とし穴掘りであった。穴を掘るだけでなく、そこに竹などをしき、葉や土をかぶせなければならない。月明かりだけで作業をしなければならない。雲で月が陰ると全く見えず、自分が落とし穴に落ちかねない状況になっていた。成実隊は、歩兵を伏せさせて敵の偵察に備えた。幸いに相馬領には入っていないので、敵の偵察は来なかった。相馬勢は領地の平原での決戦に備えているようだった。成実は、

「わしだけが休みなしじゃ。小十郎の策だろうが、お屋形はわしをこき使いすぎる」

とぼやいていた。といっても、休みを与えられたら、また文句を言うのが成実の常である。成実がいつも先陣にいたいという気持ちを小十郎も政宗も理解しているのである。


 翌日、陽があがり、成実率いる1000の騎馬隊が馬防柵の前に並んだ。成実以外は、夜の作業を免ぜられ、休養充分である。

「皆の者、心して相馬の騎馬隊にあたれ。しかし、無駄に死ぬな。退けの合図で一目散にもどってこい。よいな!」

「オー!」

 成実の騎馬隊は背に旗をたてずに、黒母衣をつけている。手柄をたてることよりも、敵に背を向けた時に、弓矢でやられないようにしているからだ。相馬の騎馬隊は、背に旗をたて、敵の首をとった時にぶら下げる縄も馬につけてある。手柄をたてることを重視しているのだ。

 相馬勢は平原に鶴翼の陣をしいている。攻めてきた敵を包み込む戦法である。相馬勢は騎馬隊およそ2000。弓隊1000。槍隊2000。それに100挺弱の鉄砲隊がいる。総勢およそ5000。

 成実勢は、魚鱗の陣で攻め込んだ。中央部の敵を突き崩す戦法である。先頭の部隊が太刀を合わせ、敵の鶴翼の陣が閉じかけたところで、成実は

「退け!」

の合図をだした。何人かの騎馬兵は敵の餌食となったが、ほとんどの兵は生き残って馬防柵の方へ向かっている。成実は、最後尾で敵をののしりながら走っている。敵の騎馬隊は一直線になって追っかけてきている。成実は、策がうまくいき、ほくそ笑んだ。

 街道から外れると、馬の足がとられ、走りにくいので、落とし穴があっても、そこにはまる敵はいなかった。遠藤盛胤が知ったら、くやしがるだろうなと成実は思った。馬防柵の前で成実の騎馬隊は左右に分かれた。馬防柵を見つけた相馬勢は長篠の合戦を思い起こしたのだろう。追撃をやめた。そこに鉄砲の音が鳴り響いた。しかし、柵からはまだ離れているので、命中率は悪い。先頭の数騎が倒れただけであった。そこに左右から矢が降ってきた。4000の弓隊が一斉に弓をはなったのである。騎馬隊の半数が大なり小なりの被害にあった。馬に矢があたり、馬を捨てて走りだした武者も相当数いた。残りの1000が右往左往しながら逃げ始めた。そこに、4000の矢がまた降ってくる。先を急いで、街道から外れて逃げようとした騎馬兵は、落とし穴にはまっている。成実はその様子を見て

「これで遠藤殿も報われる」

とつぶやいていた。


 翌日の総攻めは、相馬領の平原で行われた。先陣は成実の2000の槍兵。長槍をもち、柄の部分で地面を突きながら、ゆっくり進んでいる。落とし穴や伏兵がいないかを確かめながら進んでいるのである。

 その後方に、茂庭綱元が率いる鉄砲隊300がついている。

 右翼には、国分盛重と大内定綱の弓隊2000。

 左翼には、針生盛信と保土原行藤の弓隊2000。

 騎馬隊1000は黒川晴氏(67才)が率いて、後方に位置している。遊軍としての備えである。黒川晴氏は高齢だが、成実とならぶ馬術の名手である。後詰めの左軍は留守政景の5000。右軍は桑折時長の5000。中央に政宗の旗本ら3000が控えている。政宗の脇には小十郎がいる。

 敵はおよそ4000。長槍に騎馬兵は不利なので、すぐに攻めてこない。弓矢の距離になったところで、1000本ほどの矢が成実隊に降ってきた。そこは想定済みの成実隊、背にしょった薄い鉄板の下にもぐる防御をした。まるで亀が甲羅にもぐったような形である。カンカンと矢があたる音がした。それを見た相馬の騎馬隊が駆け込んできた。倒れた槍隊を見て、攻め込んできたのであろう。成実は、相手をできるだけ引きつけておいて

「構えよ!」

と号令を発した。そこで2000の槍隊は、一斉に槍を突き出した。槍隊同士の戦いであれば、たたきあいになるのだが、相手が騎馬兵では突き出して槍ぶすまを作った方が効果的だ。しかし、敵の騎馬兵も強者。突いてくる槍をうまく払っている。だが、足の止まった騎馬隊は弓隊の格好の餌食である。左右から4000の矢がとんできた。相馬勢はまたもや相当数の馬がねらわれた。相馬勢の武将の中には

「卑怯者! 馬をねらうとは武士の風上にもおけぬ。武士ならば、堂々と勝負せい」

と怒鳴っている者もいた。昔の1対1の戦いであれば、それも通じるが、今は集団戦が中心である。頭を使う軍団の方が勝つのである。敵の騎馬隊は散り散りになり、平原にはいたるところに、武者や馬の死体が転がっていた。成実は、槍隊の陣形を整え、軍をすすめた。敵の本陣はもう空であった。城内に逃げ込んだようである。

 相馬の中村城は平山城である。堀や川で囲まれ、5間(9m)ほどの高さの土塁がある。古い城なので、石垣は少ない。北側には政宗勢が攻め込んできた時のために、しかけがしてあったが、今回は想定外の南側から攻められたので、ただ弓や鉄砲をうちかけてくるだけだった。

 政宗勢は、すぐには攻め込まず、間を取って鉄砲や弓矢で応戦していた。敵の矢や弾を少なくする作戦である。夜になり、戦闘はやんだ。敵が夜討ちをかけてくる場合もあるので、かがり火を消すことなく、政宗勢は交替で休んだ。

 翌日、本格的な城攻めが始まった。正面からは、茂庭綱元率いる鉄砲隊を先陣とし、その後ろに成実率いる突撃隊が控えている。門を打ち破る攻城槌は大八車に乗せられ、以前よりも速く進むことができるようになっていた。

 東と西の堀からは、いかだを浮かべ、その上にはしごをかけるしかけがなされている。要するに浮き橋を作っているのだ。こういう土木作業をする一団が政宗勢にはおり、影の力を発揮していた。時折、敵の矢がとんできたが、前日ほどの数ではない。やはり矢の数が欠乏してきているのであろう。鉄砲は正面にいるようで、一発も撃たれなかった。橋ができれば、後は土塁を登るだけである。集団で登れば、数の多い方が勝ちである。

 橋の向こうからは、火矢をとばした。すると、城内の建物から火がでたようだ。城の北側から逃げだす敵が多くいた。逃げ道を確保してやれば、抵抗は少なくなる。政宗は、かつての小手森城攻めで、城内の者を皆殺しにし、苦い思いをしたことがある。後の統治のためにも、戦う意志がない者は生かしておいた方がいい。

 相馬領は、隣接する田村氏と岩城氏に分け与えられた。ただし、政宗領と隣接する新地の集落は成実のものとなった。隣の坂元村は成実の領土であった。

 田村氏が領有することになる相馬には松川浦という天然の漁港がある。これ以降、政宗勢の水軍の中心は田村氏が担うことになる。田村氏は、政宗の妻愛姫(めごひめ)の実家である。

 だが、政宗の家臣の中には、今回の恩賞に不満を言う者もいた。戦闘に加わっていない田村氏や岩城氏に領土を分け与えたのは不公平だと言うのである。それに対し、小十郎は

「相馬領は、反政宗の意識が強いところだ。そこに我々がいっても、うまくいくわけがない。それよりも隣にいる田村氏や岩城氏の方が縁戚でつながっている者もおり、統治しやすいというのがお屋形さまの考えじゃ。その方たちは、宝物や駿馬で恩賞を受けたであろうが」

と説得してまわった。この考えは、小十郎の進言で政宗が決めたことである。小十郎は政宗の体(てい)で、自分の考えをすすめたのである。

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