第3話

 朝、目が覚めると僕はまだ眠気に支配された身体を無理やり起こしてメガネをかける。エリちゃんが何かしでかさないかが気になってしまうので、意識がはっきりするとこうしてすぐさま様子を伺うようになった。

 エリちゃんが来てから三日目。相変わらず学校に行く時や出かける時はベッタリくっついてくるが、家にいる間は僕が趣味で書いてきた漫画を読んでいる。最初は読まれるのを嫌がった僕だけど、エリちゃんの押しに折れて承諾したのだ。

 部屋を見回してエリちゃんを探すと彼女は椅子に腰掛け、ヨレヨレのノートをめくって中に書かれた漫画を読んでいた。正直未だ小っ恥ずかしさがある。

 僕が起きたのに気づいたエリちゃんが言った。


「あ、おはよう♪」

「……読んでて面白いの? エリちゃん」

「うん。こうしてちゃんと読んでみたかったの。健人くんの話でしか知らなかったからさ。聞いてたよりもずっと良かったよ。絵も上手だし、こんなに良いんだから学校のみんなにも見せればいいのに」

「いや、それはちょっと……」

「なんで?」


 エリちゃんは何気なく聞いただけなのだろうが、僕は言葉に詰まってしまった。僕の沈黙から察したのか彼女の方から会話をしてくれた。


「見せたくないならそれでもいいよ。ただ、私は健人くんの漫画がみんなに褒められてるのが見たいな〜って」


 他愛もない笑顔を浮かべるエリちゃん。そこに悪意が無いのは伝わってくるが、しかし僕は身構えてしまった。


「褒められるわけないからさ。僕の漫画は……」

「え〜? すごく良いのになぁ」

「僕、顔洗ってくるね」


 と言い残して僕は部屋を出る。

 洗面台に向かって顔に張り付いた眠気をバシャバシャと洗い、タオルで顔を吹いてメガネをかけ直して鏡を見ると、そこにはニヤけた僕の顔があった。

 その理由は分かってる。生まれて初めて漫画を褒められたからだ。


「嬉しいな……」


 だけどエリちゃんが言うような『みんなに褒められる』気はしてこない。歯磨きをしている最中、頭の中に苦い思い出が顔を出した。


 ──────


 中学一年生の頃。僕はまだ今ほどぼっちではなかった。少ないながらも僕と同じように引っ込み思案の生徒二人と集まって仲良くしていたのだ。

 当時から漫画を書き始めており、ある日そのことを友達に気づかれた。


「あれ、健人くん。漫画描いてるんだ」

「うん。ちょっとだけね」

「見して見して!」


 と僕は照れながらもノートを差し出した。机に僕の漫画が開かれ、友達二人にまじまじと見られる。

 きっと彼らがしたことは中学生のなのだろう。しかしこの後の出来事は僕の記憶にこびりついた。


「あはははっ!」

「へぇ……ふふっ! こういうの書くんだ」


 確かに当時の僕は漫画を描き始めたばかりで絵も話も拙い。友達も冗談めかしたのだろう。

 しかし笑われるというのはものすごくショックだった。


「あはは、そうだよね……」


 僕は怒るでもなく空気に合わせてその場をやり過ごした。

 その日から僕は人に自分の漫画を見せることはしなくなった。それにあの出来事で僕の引っ込み思案がさらに加速してしまい、いつの間にか彼らとも疎遠。友達を作るのにも恐れるようになってしまって、今のぼっちな僕が誕生した。


 ──────


 自分の部屋に戻るとエリちゃんは椅子からベッドに座るのを変え、また別のノートを手に取りページをめくっていた。そういえば今朝読んでいたのも昨日読んでいたノートとは違ってたような。

 ひょっとして、と思い聞いてみる。


「もしかして、僕の描いたやつ全部読む気じゃない?」

「分かっちゃった? ふふふ」

「どうしてそんなこと……」

「だって最後なんだからさ。あの世に行く前に全部見ておきたくて」


 しきりに彼女が言う『最後』という言葉に僕の心にチクリとした痛みが襲う。閉口してしまった僕を見て僕の気持ちを察したのか、エリちゃんは妖しく口角を上げる。


「あれ、寂しがってくれるんだぁ〜♪」

「そ、そりゃあ、まぁ……。それなりには」

「嬉しいなぁ、ふふふ。私もすごく寂しいよ。いつあの世に行くのかは私にも分からないの。だから、それまではずーっと一緒に居ようね〜♪」


 照れてしまって顔を逸らす僕に、エリちゃんは黒い髪を揺らして言った。



 学校に到着し、何事もなく昼休み。教室の隅っこで目立たないようにコソコソと漫画を描くのがいつもの僕の過ごし方だ。エリちゃんが来てもそれはあまり変わっていない。

 変わったことがあるとすればトイレに行かなくなったこと。昼休みだけではなく学校にいる間は行かないようにしている。

 何故ならエリちゃんがついてくるかもしれないから。なのだが……しかし今日の僕は我慢ができなかった。

 漫画を描いてたノートを閉じて席を立ち、廊下を歩いて男子トイレに向かう。当たり前のように右腕にくっついてきたエリちゃんに、僕は男子トイレの前に到着すると小声で言った。


「あの、さすがにここは離れてくれない?」

「なんで?」

「だって男子トイレだよ? マズいよさすがに……」

「マズいって、なんで? 私は健人くん以外に見えないのに」

「そ、そういう問題じゃないでしょ……! お願いだよ、ここは!」

「え〜? どうしてなの? 健人くん、私のこと嫌いになった?」

「まさか! 違うよ! でも、ここはさぁ……! 音とか聞かれたくないし……」


 頑なに離れようとしないエリちゃんをなんとか説得して男子トイレの前で待たせ、僕は用を済ませた。

 そしてエリちゃんの元に戻ってくると……居ない!?

 いくら廊下を見渡してもエリちゃんの姿が見えない!

 どうして?どこに行った?そもそも、どこかに行くとは思えない……。

 考えを巡らしていると僕はエリちゃんのある言葉を思い出す。


『いつあの世に行くかは私にも分からないの』


 まさか!と僕は焦る。


(離れてた隙にあの世に行ってしまったんじゃないか?)


 そうだったらどうしよう……!まだお別れの挨拶もしてないのに!まだ早いよ!お、お願いだからそれだけはやめてほしい!

 生徒が会話なりしながら多少行き交う廊下。その中では目立つはずの黒い着物は気配すらなかった。

 もしかして本当に───


 すると背後からいきなり誰かに抱きつかれた。


「ばぁ!」

「うわぁあぁぁあ!」


 つい叫んでしまって、周りの生徒は僕を気が狂ったんじゃないかという目で見て通り過ぎる。

 うん、分かってる。エリちゃんの声だ。落ち着きを取り戻した僕は、一旦誰にも見られない廊下の陰に移動する。エリちゃんは僕の背中に抱きつきながらついてきた。


「エリちゃん! もう!」

「びっくりした? ふふふ。私を一人にした罰だよ〜♪」


 後ろから耳に息を吹きかけるような囁きだ。未だに慣れないこの感覚のせいでまた背筋がヒヤリとしてしまう。


「健人くんはやっぱり面白いなぁ。あんなに驚くなんて」

「だ、だって……! もうあの世に行っちゃったと思ったから……」

「え?」

「悪い冗談辞めてよ。僕、本当に心配して……。行ってなくてよかったよ、もう……」

「……んふふふ。じゃあ、ずっと傍にいてくれる?」


 僕が恥ずかしながら頷くと、エリちゃんの抱きつきがより強くなったのが背中から伝わってきた。嬉しそうにしているのが何となく伝わる。

 でもさすがに歩きづらいので腕にしがみつくようにお願いし、僕たちは教室に戻った。


 僕の机を見た瞬間、驚いてしまう。そういえば机に置きっぱなしの僕のノートを開いて中を見ている男子生徒がいる。彼は確か同じクラスの藤田くん。

 口数は少ないが同じ少ない同士でも僕とは違ってクールな感じだ。陽キャグループに入っており、抜群の運動神経とルックスで女子からの人気も高い。そんな彼が僕の漫画をまじまじと見ている。

 急いで僕が駆け寄ると藤田くんは言った。


「よう。お前の席だったか。山岸だっけ」

「う、うん。どうしたの?」


 と話しながらさりげなく僕はノートを閉じると、藤田くんはどこかガッカリした素振りを見せる。


「あ。まだ読んでたのに」

「み、見せれるようなもんじゃないしさ。あははは」

「そんなことないぜ? 読ましてくんね」

「あ、いや、それは……」

「いいだろ。な?」


 こういう時、サラッと見せられる人がいわゆるコミュ力が高いと言えるのだろう。しかし僕は……あぁ!中学時代のあの出来事が脳裏によぎってしまう!

 僕はただでさえ会話が苦手なのに、トラウマ的な危機感を覚えて緊張してしまい、口調がおぼつかない。ダラダラと汗をかいてしまう。


 すると、突然藤田くんがお腹を抱えてうずくまった。


「ぐあっ! い、痛い! なんだこれ……! いてて!」


 その悶える声はすぐクラス中に広まった。みんな何事かと藤田くんの方を見て、中には心配するように近づく人もいた。


「私、保健室に連れていくね!」


 と名乗り出たのは宮本さんだった。テキパキと藤田くんを介抱して支えながら教室を出ていく。目の前にいたのに固まっていた僕を気にする人がいなかったのは……正直ホッとした。

 もしやと思い横を見ると、エリちゃんの目は敵意を孕むように紅く光っている。なんだか、自分が情けなくなった。

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