第17話
★ 二〇一〇年 六月 結弦
それは放課後を迎え、友だちと駅前にオープンした新しいケーキ屋へ行こうとした時のこと。ポケットに入れていた携帯がヴィィィィンと震えたんだ。
「どったの結弦ぅ。彼ピッピからのメール?」
「ううん。ってか彼氏いないの知ってるじゃん。お母さんからだよ」
「なーんだ。ケーキ私の分もヨロ、みたいな?」
「いや、ケーキ屋行くとは伝えてないしなぁ。なんだろ」
などと言いながら文面に目を通した私は手早く返信すると「ごめん、やっぱ今日行けないわ」と言った。
「え、え? なんで?」
「急用が出来ちゃった。いつか埋め合わせするから」
一応形だけは申し訳なさそうにしながら私は一目散に駆け出した。背後で友だちが「ちょ、結弦ー?」と呆気に取られ、他のクラスの先生に「コラ、走るなー!」と怒られながら「すみませーん」とダッシュで階段を駆け降りるとなんだか青春映画の主人公にでもなったような気分だ。でも私が急いでいるのはそんな明るい理由じゃない。渚くんが熱を出して保育園を早退したとお母さんからメールがあったから私はこうして風になっているんだ。
渚くんと一緒に住み始めて半年以上が経った。基本的に学校でしか会わない友だちとは違い、おはようからおやすみまで共に過ごせば色々なことが分かるようになる。たとえば体の弱さとかね。渚くんはちょっと、いやかなり虚弱体質なのだ。
羨ましいほど肌が白いと思ってたらただ顔色が悪いだけだったり、胃腸が弱いこともあってご飯もあまり食べられないし、季節の変わり目や生活環境の些細な変化ですぐに体調が崩れる。気圧が低い日なんかは要注意。これから本格的な夏になるから夏バテしないといいんだけど、なんて思った矢先に高熱。こうもすぐに体調を崩すとお父さんやお母さんはおちおち仕事にも行けない。そして私も私で友だちと遊ぶ頻度が減った。
でもこれくらい平気。だって渚くんはすごく心細いはずだもん。なんてったってまだ幼児。ほんの二、三年前まで哺乳瓶でミルクを飲んでいた歳だ。それなのに泣かずに耐えてるから偉い。
まぁ、本当はもっと甘えてくれていいんだけどね。それだけじゃない。笑って、怒って、喜んで、悲しんで、たくさんの感情を知ってほしい。あの子はある日突然本当の母親を失ったからか、情緒を育てるべき時期に最も愛情を注いでくれる大人がいないまま育ってしまった。そのせいでどうも感情表現が下手っぴなんだ。
だから一緒に雪だるまを作ったりキャッチボールをしてあの子の笑顔が見られると本当に嬉しい。思わず犬みたいに頭を撫でたらくすぐったそうに身を捩ってたけど私はそれが嬉しさからくる照れ隠しみたいなものだとすぐに気付き、それと同時に渚くんは内向的な性格の割にスキンシップが好きなことも知った。
それ以降私はそれ以来ヨシヨシしたり手を繋いだり柔らかいほっぺをムニュムニュしたりと、なるべく肌と肌が触れ合うように心掛けている。母親から充分な愛情を注がれなかった分、しっかりと。
「ただいまぁ!」
まだ陽が高いうちに全力ダッシュしたから汗びっしょりになって帰宅し、ギョッとするお母さんを尻目にベッドでスヤスヤ……じゃない、割と険しい顔で寝ている渚くんの元へ駆け寄る私。おでこに熱さまシートを貼ってはいるけど頬は赤く、手を握ったらこの時期には不快に感じるほど熱かった。
「お母さん、結弦くんはなんでこうなったの?」
「今日は保育園でプールに入ったらしいんだけど、どうもそのあたりからフラフラしだしたみたいなの。陽射しが強かったし、軽い熱中症かもしれませんって。病院に連れて行きたかったけど午後の診療時間も過ぎちゃってるし、涼しくしてれば大丈夫そうだから」
「涼しくなるためにプールに入って熱中症かぁ。本末転倒だねこりゃ」
とりあえず重症ではなさそうでひと安心。夏風邪でもこじらせたのかと思ってヒヤヒヤしちゃった。移ったらいけないから看病もできないしね。さて、私にできることはなんだろう。子守唄でも歌うか? いや、これから寝入る子ならまだしも既に寝てる子に聞かせてどうする。
「結弦。さっき寝たばかりだから起こさないようにね」
「わーかってるってー」
と、元気よく返事をしたせいか渚くんが唸りながらモゾモゾと動いてまんまるのお目目がパチクリと。やべ。言われたそばから起こしちゃった。
「ご、ご機嫌麗しゅう渚くん」
「……おねえちゃん」
「なぁに?」
「て、ベチョベチョ」
て? あ、手か。そういえば全身汗びっしょりだったわ。おまけに渚くんの手がポカポカだから二人の熱が合わさって手のひらの温度と湿度は今ごろエライことに。
「あ、あははー……。ごめんね、お姉ちゃん走ってきたから」
「なんでぇ?」
「そりゃ渚くんが心配だからに決まってるじゃない」
我ながらクサいセリフだなぁと思いつつ手は離さない私。そしたら渚くんは「おねえちゃん、ぼくしんじゃうの?」となんだか縁起でもないことを言い出した。もしかして私が大げさにギュッと手を握ってるから重病だと勘違いしちゃった? アニメなんかでそういうシーンがあって影響されちゃったのかな。
「死なない死なない。寝てれば治るって。だからしっかり寝よ? 寝る子は育つんだぞぉ」
「……じゃあこもりうた、うたって」
おや、まさか本当に子守唄を所望するとは甘えんぼさんだなぁ。まぁ、お願いされて悪い気はしないけど。
「ふふん。私の美声に惚れちゃっても知らないぞぉ」
喉の調子を整えてうろ覚えな歌詞を携帯で調べる。よし、準備万端。そして息を吸った瞬間またしても携帯が震えて気勢を削がれた。ええい、いいところだったのにナニヤツと思ったら今日一緒にケーキ屋に行く予定だった友だちからの着信だ。ドタキャンしちゃって多少なりとも悪いとは思ってるので無視はまずいな。仕方ない、出よ。
そう思って渚くんの元を離れたら直後に「わわっ」と慌てる声がした。見ると、渚くんが今まさにベッドから落ちる寸前だった。『危ない!』と口に出るより先に体が動いた私は渚くんのもとに超ダッシュ。その時に背後からちょっと鈍い音がしたけど今は無視!
靴下を履いていることを最大限利用してサッカー選手のゴールパフォーマンスみたいな膝立ちスライディングを決めるとちょうど渚くんがポフッと……じゃない、四歳児はもう結構重たくてズシッときたがどうにかキャッチできた。ふぅ、危ない危ない。子どもはちょっと目を離したらコレだ。っていうか膝あっつ!
とはいえ一番ビックリしてるのはもちろん本人で、ドギマギしてる鼓動が密着した体越しに伝わってくる。
「びっくりしたねぇ渚くん」
「わ、うん……」
「よしよし」
私の腕をむんずと掴んでる渚くんの頭を撫でると、ついさっき危ない目に遭ったとは思えないくらいリラックスして身を委ねるんだから大した子だ。とりあえず危機は去ったからさっきの音の正体でも探ろうかな。
そして振り返った私の目に飛び込んできたのが「いった~……」とおでこを押さえてうずくまるお母さんの姿だった。ちょっと涙目になってて開きっぱなしの台所の戸棚を見たらおおよその事態は把握できた。うん、アレは痛い……。
「なにしてんのお母さん……」
「や、渚がベッドから落ちそうになってたからそっちに行こうとしたんだけど……」
「咄嗟に動いたせいでおでこをゴッチンコした、と」
「うん……」
色々ぶきっちょな人だけどまさかここまでとは。憐れ。憐れすぎるよお母さん……。あんまりにも憐れだったから渚くんを抱っこしたままお母さんのところまで行ってヨシヨシと言いながら背中をポンポンしたくらいだ。デカい子どもだぁ。三十五歳児。ひょっとしたら私って保育士に向いてたりしないかな。元々教師志望ではあったから進路候補のひとつに加えとこうかな。
「そもそもなにゆえ渚くんはベッドから落っこちそうになったワケ?」
「……おねえちゃんにそばにいてしくて……おいかけようとしたの……」
あー、事の発端は私かぁ。可愛いこと言ってくれるじゃん。将来は一途な子に育ちそうだ。
「今日はもうどこにも行かないから安心して」
「ほんとぉ?」
「うん。私はここにいるよ」
ずっとそばにね。
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