第16話

 

 家に帰ると生ぬるくて湿った風がほおを撫でた。玄関にはここだけ見れば女の大家族かと思うほどのヒールやパンプスが転がっている。そこに僕の靴は一足もない。手を洗ってからリビングへ向かうと雑誌や洗濯物が散らかったまま窓が開け放たれていて、母さんがベランダの手すりにもたれかかってタバコを吸っていた。

「手すり汚いでしょ。汚れるよ」

「こんな時間までどこ行ってたの」

 背を向けたままいかにも母親みたいなことを言う母さんを見てると不思議と笑いたくなった。先生を家まで送ってたから時計の針はぼちぼち十時を差そうとしているし、普通の高校生の帰りにしては確かに遅い。けど普段からもっと遅い時間まで働かせてる自分はどうなのさ、と。


「ちょっと野暮用で」

「野暮用、ねぇ。アンタにも夜遊びする相手がいたんだ。母さんビックリ」

「そんなんじゃないよ。たた、普段お世話になってる人だから」

「お世話?」

 その言葉にピクリと反応した母さんが振り向く。今度は手すりを背もたれにして。ところどころに錆が浮いていて服が汚れるだろうに気にしないんだ、この人は。どうせ今着てるドレスみたいな服もお客さんからの頂き物だから大事に扱う気がないんだろうな。材質からして寝巻に使っていいような代物じゃないと思うんだけど。


「ねぇ。もしかしてその人って例の担任?」

「別に誰だっていいだろ」

 何度でも言うが母さんの獲物を狙う爬虫類か猫みたいな鋭い瞳孔が僕はすこぶる苦手だ。僕とは似ても似つかない顔つき。生まれ持った勝気な表情。油断すればたちまち喰われてしまいそうなほどの。

「じ、じゃあ僕お風呂入ってくるから。タバコ、ほどほどにしときなよ」

「渚」

 足下の雑誌や洗濯物を避けながら歩いていたら不意に呼び止められた。

「……なに?」

 わざわざ足を止めて返事をしたのに母さんは紫煙を燻らすばかりで何も言わない。いつもこうだ。この人は思わせぶりな態度をとるだけとって他者の反応を待つというイイ趣味を持ってる。


「夕飯のおかず、冷蔵庫に入ってるからチンして食べてね」

「え、あ、うん……それだけ?」

「それだけ」

 そして母さんは何事もなかったかのように再び背を向けて煙を吐き出した。僕はその後ろ姿をしばらく眺め、言いようのない罪悪感に苛まれながら脱衣場へ向かい、その途中で音を立てないように冷蔵庫の扉を開けた。

 その中にはラップにくるまれた豚肉の生姜焼きとポテトサラダ、小イワシの南蛮漬けのお皿たちがトレーからはみ出そうなくらいギチギチに詰め込まれていたんだ。オカズを三品も用意するなんて凄く珍しかったから僕は今日が何かの記念日なのかと錯覚したくらいだ。

 なんで今日に限って……なんて思いながら狭い湯船で体を丸めた僕はひとつの答えに達した。ひょっとしたら母さんは、たまの休みくらい一緒にご飯を食べたかったんじゃないだろうか、と。


 翌日、僕は珍しく朝から熱を出して学校を休んだ。これがまたタチの悪い夏風邪で熱は三十八度を軽く超え、世界がぐるぐると回るせいでトイレに行くどころか立ち上がることすらままならない。しかも吐き気までするし、いざ吐こうと思っても何も出なくて部屋とトイレを無駄に何往復もする羽目になるし。

 まずいなぁ。出席日数がヤバいのは自業自得なんだけどこれは一日で治る気がしない。病院に行こうにもこんな状態でまともに歩けるわけがなく、母さんは車を持ってないから連れて行ってもらうこともできない。


 だからこうして大人しく眠るしかないんだけど気分の悪さと咳ばかりするせいで一睡もできないから体感時間が長くて敵わない。正直言うとすこぶる暇だ。少しでも寝て体力を回復したいのに夏の陽射しはどうしてこうも凶悪なのか。カーテンなんてあって無いようなもんだ。早く夜になってほしい。夜になると母さんは仕事に向かわなきゃいけないけど一人のほうが却って気が楽だ。


 そう思っていたのにいざ夕方になって母さんが家を出ていくと無性に心細くなるんだから困った。弱っている時の人間の心理ってのは本当に厄介だな。

 母さんは今日、一人で大丈夫だろうか。金曜日だからお客さんも多いはずだ。こういう時のためにもう一人くらい、せめてアルバイトでいいから雇えばいいのに母さんは『そんな余裕ないから』と従業員を増やす気は毛頭ないらしい。まぁ、身内の僕を実質タダ働きさせてるくらいだから経営に余裕なんてあるはずないよな。僕はそのへんノータッチだから分かるはずもないし。


 それにしても暑い。さっきから汗が止まらないからぶっちゃけお風呂に入りたい。せめてシャワーを浴びたい。冷水でも構わないから。でも夏風邪の時ってお風呂は入っていいんだっけ? そもそも暑く感じるのっておかしくないか。普通、風邪って言ったら寒気がするもんじゃないのか。僕って何も知らないんだな。

 それにお腹も空いた。そういえばお昼に母さんがおかゆを作ってくれようとしたんだった。その時に限って食欲がないからいらないって言ったような気もする。意識が朦朧としてたから記憶が曖昧だけど。

 もうとことん間が悪いな。冷蔵庫を漁れば何かあると思うけど調理する余裕なんてあるわけないし。確かバナナがまだ一本だけ残ってたはずだからそれを食べて凌ぐか。立つのでさえ億劫で相変わらず視界はグルグルと大回転中だけど壁を伝っていけばなんとかなる。


 僕は布団から這いずり出て耄碌したお爺さんみたいな足取りでキッチンへ向かった。あ、ヤバい。予想以上に平衡感覚が死んでる。どっちが上でどっちが下なのかすら分からなくなった。

 これ、本気でまずいんじゃないか。救急車を呼んだほうがいいんじゃ……。いやいや、さすがに大げさだよな。こんなので救急車を呼んだら迷惑だろ。最近のニュースで救急車をタクシー代わりに使う悪質な利用者が増えてるって言ってたじゃないか。そのせいで本当に必要な人の元へ行き渡らなくなるって。


 それを考えれば救急車なんて呼べない。母さんに余計な心配をかけたくないし、そもそも救急車を呼ぶのってちょっと恥ずかしいし。とにかくもうジッとしてよう。お腹が空いても我慢だ。大丈夫。薬だって飲んだんだから横になって目をつむって明日の朝になればいくらかマシになってるさ。

 そう言い聞かせて来た道を引き返そうとした僕だったけど足がもつれてバランスを崩した。運の悪いことに平衡感覚が狂ってるせいで壁に伸ばしたと思った手は何も掴めず、走馬灯みたいにスローモーションになった視界の隅にテーブルが映って――

「いってぇ……」

 ――おでこを強かに打ちつけた。ただでさえ一人で心細い中、夏風邪の頭痛に加えて物理的な痛みまで重なったことでそこそこいい歳をした男のくせに泣きそうになったほどだ。あまりにも痛かったもんだから意識が遠のいていく始末。あれ? これって僕、下手したら死ぬのでは。さっきまで微塵も眠たくなかったのに猛烈な睡魔が襲ってきてるのは眠たいんじゃなくて意識を失う前兆なのでは。実は打ちどころが悪くて明日の朝には冷たくなってる、なんてことも……。


 とにかく布団。布団に戻らないと。っていうか布団どこだ。視界が暗くてよく見えない。ひょっとしてもう陽が落ちた? だったら電気をつけないと。……電気のスイッチは? 壁にペタペタ手を這わせてればいつか見つかるはずなのに全然辿り着けないぞ。もしかして今触ってるのって壁じゃなくて床?

 弱ったな。誰か手を貸してくれ。姉ちゃん、先生——


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