第15話

☆ 要 渚


 カウンターでグラスを拭いていると「ん……」というくぐもった声と共に先生がモゾモゾと動き出した。どうやら起きたみたいだ。

「んぇ……?」

 先生はまだ寝ぼけているらしく、あたりをキョロキョロと見回し、次いで僕が背中に掛けた毛布を見てようやく自分が置かれた状況を把握したらしい。カッと目を見開いたかと思うと「今何時!?」と。その慌てっぷりがかつての姉を彷彿とさせて可愛らしかった。


「九時ちょっと前です。気持ち良さそうに寝てましたよ」

「ぬあーっ! 何やってんだ私ぃ!」

 天を仰いで頭をガシガシする先生。この人は赴任して僅か二ヶ月で生徒たちからの人気を不動のものとしているらしいけど多分その秘訣はこういったおっちょこちょいなところなんだろうな。ドジっ子っていうにはちょっとキツい年齢だけど若く見えるし。


「要くんごめん……けど起こしてくれても良かったのに」

「いやぁ、あんまりにも気持ち良さそうな寝顔だったんでつい」

「なに堪能してんの」

「寝言もこぼしてましたよ」

「え、マジ?」

「嘘です」

「コ、コイツ……」

 わなわなと震えながら拳を握る先生を見るとこの人もこの人でからかい甲斐がありそうだなと思う。


「あー、こんなことしてる場合じゃない。早く帰らないと。要くん、お代は?」

「今日はこっちから誘ったんで結構ですよ」

「え? いやいやそういうわけにはいかないよ」

「や、でも売り上げとして計上しちゃうと母さんに勝手に店開けたことバレるから……」

「でもどのみち使った食材の量でバレない?」

「そこはほかのお客さんに出す量をちょっとずつ減らして誤魔化します。一人五パーセントずつ減らせば二〇人でトントンですし、ドリンクなら氷を増やして水かさを増せば分からなくなりますよ」

「なんかキミ、将来産地偽装とかやらかしそうで怖いわ私……」

 その後も何度か払う、いや結構ですの問答を繰り返し、先生が先に折れたことで今日はお開きとなった。


「もう遅いんで送っていきますよ」

「いやいやいや、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないって。キミ生徒、私先生。オーケー?」

「ノー」

 先生はジトっとした呆れた眼差しを送ったあと「好きになさい。どうせ近いんだし」と言って歩き出したので僕は教師と言うには少しばかり頼りない背中を追うことにした。

 いくら夏とはいえ九時を回れば完全に夜の帳が下りる。今日は梅雨の晴れ間で月や星を遮るものが全くと言っていいほどなかったから綺麗な夜空が広がっている。その天然のプラネタリウムと呼ぶには少し寂しい空の下を僕らはお互いに無言で歩いた。先生が先を行って、僕がその二歩か三歩後ろを。

 多分、五分くらいはそのままだったと思う。歓楽街から外れて少しずつ人々の喧騒が薄らいできたころ、不意に先生が口を開いたんだ。


「私ね、さっき夢を見てたの」

「夢、ですか。どんな?」

「小さな男の子とキャッチボールをする夢」

「知り合いの子?」

「いや、全然。夢の中だけで会う謎の少年Aかな」

「なにそれ。意味分かんないです」

「うーん。それがさぁ、私にもよく分からないんだよねぇ。そもそも私なんてキャッチボールした記憶すらないもん」

「それって夢の中で別の人の人生でも歩んでるみたいですね。それか寝てる時だけ異世界転生してるとか」

 自分で言ってておかしくなってきた。いくらなんでもファンタジーすぎるだろ。


「ちなみにその夢っていつぐらいから見るようになったんです?」

「さぁどうだったかなぁ。高校生……ぐらいだと思うんだけどいかんせんその頃の私は色々あったもんで記憶がごっちゃになってるんだよ」

「ホームルームの時にも言ってましたけど昔なにかあったんですか」

 あ、しまった。ちょっと不躾すぎたかも。聞かれたくないことだったらどうしよう。けどその心配は杞憂だったみたいで先生は「私、まぁまぁ長いあいだ入院してたんだよ」とエラくあっけらかんとしていた。これだけでも驚くに値することなんだけど僕はさらに息を呑むことになる。


「で、出席日数が足りなくて留年してる。早い話が、高校二年生を二回やってるのよ」

「……それ、ガチな話?」

「こんなことで嘘吐いてどうすんのさ」

 驚きのあまり足を止めた僕を置いてケタケタと笑う先生の背中からは当時どれだけ苦労したかなんてこれっぽっちも伝わってこない。けど進級当初から欠席しまくっていた僕に『留年したくないでしょ』と何度も念を押していたことから察するに、きっと……。

「なぁに? 気でも使ってくれてるの? 甘いわよ若造が」

 僕がついて来ないことに気が付いた先生はこちらを振り向いてニヒルに笑った。月を背にしたその姿はさながら役者みたいで、誰かを演じているようにも見えたんだ。もしかして今僕が見ているのは先生であって先生じゃないのかも、なんて。


「ほら要くん。いつまでボケッと突っ立ってるつもり?」

「うるさいな……。さっきまで酔って熟睡してたくせに」

「聞こえてるわよ」

 先生は軽い足取りで先々進んでいく。僕は少しだけ間を置いてからあとを追った。近すぎるとジロジロと眺めていたらすぐにバレちゃうし、一部分しか見られなくて損したような気になるから。

「そういえば私が夢の中で会う男の子ってキミに似てた気がする」

「はぁ。それはまた扱いが難しそうな子どもですね。ご愁傷様です」

「いやいや、それがどこぞのひねくれモヤシ少年とは違って素直で可愛い子だったよ。ちょうど、あのお店に飾られてる写真のころの要くんみたいな感じだった」

「あの写真、見たんですか」

「うん。悪かったかな」

「いや、別に……。本当に見られたくなかったらわざわざ店になんか置きませんし。まぁ、しまおうとしたら母さんが怒るんで僕としては渋々飾ってるって感じですけど」

「そっか。じゃあアレはやっぱり要くんのご家族の写真?」

「えぇ。でも違和感ありませんでした?」


 普通の人はあの写真を見て家族写真だとは思わない。明らかに四人の年齢が合致しないから。それは先生も同様で「チョー違和感あったよ。あの四人って本当はどういう関係なの?」と聞いてきた。

「れっきとした家族です。父さんと母さん、姉ちゃんと僕の、ね。まぁ僕は父さんとしか血が繋がってませんでしたけど」

 先生は先を促しているのか、それとも間に挟む言葉に迷っているのか口を開こうとはしなかった。

「子持ち同士の再婚なんてよくあるじゃないですか。まぁ、三十歳で女子高生の父になるなんてそうそうあってたまるかって話ではありますが」

「ち、ちょっと待って。担任のくせによく知らなくて申し訳ないんだけどお父さんとは離れて暮らしてるの? 単身赴任とか」

「いえ、もう何年も前にほかに女を作って出ていきました」

「は……?」

「言葉の通りですよ。浮気です」

 途端に先生が申し訳なさそうな顔になった。却って惨めさでいっぱいになるからそういう表情をされるのは苦手だ。


「お姉さんは……って言ってもあの写真の時で高校生ならもうとっくに家を出てるか」

「えぇ、まぁ。十三も離れてたので」

「十三っていうと私と同い年か。しかしまさかキミが血の繋がらない母親と二人暮らしだったとはねぇ……。以前お宅に上がらせてもらった時に靴や干してあった服に大人の男の気配がなかったから不思議といえば不思議ではあったけど。キミもハナから親イコール母親としか認識してない口ぶりだったし」

「父さんの記憶なんてほとんどないので」

 すると先生は右手で顔を覆いながら「ごめん。もっと早くに知っておくべきだった」と、わざわざ謝ることでもないのにまた心苦しそうな顔つきになった。その手を引き剥がして『謝らないでください』と言いたくなった気持ちをどれだけこらえたか。


「お姉さんはこのこと把握してるの?」

「いえ……。なにぶん遠くにいるので」

「そっかぁ。ちなみに聞くけどお姉さんってどんな人?」

 どんな意図があってそんな質問をしたんだろう。明らかにプライベートなことだし、ぶっちゃけ教師が尋ねるようなことじゃないと思う。でも僕はこう言ったら面白い反応が見られるかなという好奇心から「先生みたいな人でした」と言ったんだ。

「私?」

「えぇ。優しくて世話焼きで、おっちょこちょいで少し変人で」

「ちょい待て。誰が変人なのよ誰が」

「先生ってもしかして自分のこと真人間だと思ってます?」

「思ってますがー?」

「そうやってムキにならないでください。大人なんだから」

「大人を舐め腐ってるキミが悪い」

 そして振り下ろされるチョップ。


「ったくほんっとうに減らず口ばかり叩くガキンチョだこと。同情して損しちゃった」

 ブツクサ言いながら歩き始める先生のあとを僕はまた三歩遅れてついて行く。気を抜いたら追い越しそうになるからその都度ペースや歩幅を調子して。

 うん、やっぱ似てるなぁ。そうやって無意識のうちに髪の毛先を指に巻き付けたりする癖もそれっぽい。なんの因果か年齢まで一緒だし。 

姉ちゃん、今どこで誰と生きてるのかなぁ。こうやって先生と触れ合うことで大好きだった姉ちゃんを思い出す程度には僕の心はすっかり先生に支配されてしまったみたいだ。



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