第9話
「そうは言ってもなぁ」
通学路の途中で開かずの踏切に捕まった僕は警報機の音に紛れて独りごちる。先生のことを知ると言ってもあの人は今年からウチの高校に来たんだから上級生やほかの先生に聞いたって情報なんか引き出せないだろうし。もとより知り合いの上級生なんていないんだ僕は。
「なんとかして前にいた学校の同僚や生徒に聞くとか……いや、そもそもどこの学校にいたのか知らないんだった」
高校じゃなくて中学の教師だった可能性もあるしなぁ。この踏切に捕まってる学生の中にも中学生が混ざってるし。その中の一人、遮断機の最前列に陣取っている女子は僕が二年前まで通ってた中学の制服を着ていた。もともと交友が狭かったから確証はないけど見たことがない顔だったから多分一年生だろう。
しかし中学にしては登校するのが早くないかな。楽器ケースっぽい物を持ってるから吹奏楽部の朝練でもあるんだろうか。しかもその子はやけにソワソワとしていて落ち着きがない。まだ電車は来ないのかとあっちを見たりこっちを見たり腕時計に目を落としたり。中学生で腕時計を付けてること自体が珍しいけど僕と違ってキッチリした子なんだろうな。
けれどなんだか危なっかしく見えるのは気のせいだろうか。もしかして朝練に遅刻しそうだから焦ってるのかも。踏切にはかれこれ十分近く足止めを食らってるんだけどこの様子だと遮断機をくぐって強引に渡ってしまいそうな雰囲気さえある。そうやって轢かれて死ぬ人が実際にいるんだから笑えない。たかが十分遅れたくらいで命を懸けるなんて割に合わないことするなよな。
その電車に乗り合わせていた人は遅刻するし、鉄道会社は遺体の後片付けに追われるし、轢いてしまった運転士はノイローゼになって職場に復帰できなくなるとも聞く。この上なく迷惑だよ。死にたいならいちいち止めたりしないけどせめて一人で死んでくれ。誰にも迷惑をかけないように。
考え出すとこの中学生が本当に遮断機をくぐって渡り始めないか不安になってきた。経験上、この開かずの踏切は長くても十分少々で開く。だったら――
「次の電車が行ったら開くよ」
「え?」
前にいる中学生が長い黒髪をなびかせながら振り向いた。そういえば姉ちゃんもこんな風にツヤのある黒髪だった。よく毛先を弄っていて子ども心に何をしてるのか気になったから訊ねたら『枝毛がないか確認してるのっ♪』とやけに上機嫌で教えてもらったことがある。どうして機嫌が良かったのか、今となってはもう思い出せないけど。
「踏切、もう開くからそんなにソワソワしなくて大丈夫だよ」
「……もしかして私に言ってますか?」
「他に誰がいるの」
「あ、で、ですよね……」
突然知らない男から声を掛けられたんだ。そりゃ驚くよな。だからってそんなあからさまに怯えた目で見なくてもいいんじゃないかな。タイミング良く空気を読んでくれた電車が通過して遮断機が開いたからあまり気まずい思いをしなくて済んだけども。
ただ、その子はなかなか踏切を渡ろうとしなかった。どうにも引っかかるんだけど僕だって十分も無駄に足止めを食らった遅れを取り戻したい気持ちがあるから何も言わずに隣を通り過ぎた。
踏切を渡り終えたあとにそれとなく振り返って確認するとその子はまだ元の場所にいた。さすがに気味が悪くなったから僕は足早に学校へ向かったんだ。さて、先生に家庭訪問のことを切り出せなかった言い訳を考えないと。
☆ 飛鳥井 こころ
昨日、要くんはあんな時間にあんな場所で何をしていたんだろう。彼と知り合って三ヶ月近く経ったけどハッキリ言って放課後に友だちと遊ぶようなタイプには見えない。あの辺りは雑多な繁華街で飲み屋だけじゃなくて夜のお店もあるから生徒には不用意に立ち入らないように言ってるんだけどなぁ。ここはやっぱり本人に直接聞いてみないとダメみたい。
というわけで朝のホームルーム後に彼を捕まえて放課後に少し時間を頂戴と伝えると露骨に嫌そうな顔で「またですか」と言われた。若干腹が立ったけどあんな顔をされると却って
初めての異動ということで当初は不安だったけど丸井先生の言う通りこの高校の生徒は想像以上にお利口さんで手の掛からない生徒が多い。だから帰りのホームルームもすぐに終わる。そこまではいい。問題はそれからだ。
「セーンセ。今日の授業でちょっと教えてほしいことがあるんですけど」
ほら来た。放課後になるとこんな風に教科書片手に教えを乞う生徒がチラホラと現れる。勉強熱心でいいことなんだけどね。ちなみにこの子は以前、要くんから伝言を預かってくれた三つ編み文学少女の夏目さんだ。
「教えてほしいってどこ?」
「ここです。この『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』っていうのがイマイチよく分からなくて」
国語教師の私が今の授業で教えているのは中島敦著の
「ははぁん。臆病な自尊心と尊大な羞恥心ねぇ。私も昔はよく分からなかったなぁ」
「先生でも?」
「そりゃそうよ。今でこそ国語の教師なんてやってるけど昔は本なんて全然読めなかったもの。むしろ嫌いなほうだったわ。小難しいし、眠たくなるし」
「へぇー、意外。でも今は好きなんですよね?」
「人並みに、だけどね」
「どうやって好きになったんですか」
「えーっと……」
あれ、どうだったかな。何かきっかけがあったはずなんだけど思い出せない。教師になろうと意識して大学を選んだんだから少なくとも高校時代だったんだろうけど確証、というか自信が持てなかった。あの頃は暇で暇でしょうがなくて時間を持て余していたのに本なんて読んだ記憶がないんだ。
「先生?」
「え? あー、なんでもないなんでもない。いやちょっと記憶を探ってたんだけど思い出せなくてさぁ」
「なにそれ、変なのー」
「まぁまぁ。でもこういうの結構あるじゃない? 私たち何がきっかけで友達になったんだっけ、みたいな」
「言われてみれば……あるかも!」
「でしょー?」
こうしてみると好きなものを好きになったきっかけって曖昧なことがほとんどだ。食べ物や教科、スポーツ、ファッション、芸能人、その他万物の趣味。それらが好きな理由を事細かに説明できる人のほうが少ないんじゃないかな。
それから私たちは臆病な自尊心と尊大な羞恥心についてという当初の目的を忘れてしばらく雑談に耽ってしまう始末だった。それに気付いたのは実に三十分も経ってからで、慌てて教室を出ると廊下で要くんが開け放った窓の桟にもたれかかっているのが目に入り、あちゃーと天を仰いだ。
「先生、人を呼び出しておいてこんなに待たせるとかさすがにないですよ。僕だってそれなりに忙しいのに」
「ごめんごめん。いやホントにごめんなさい」
ここは神社の拝殿かというほど拝み倒す私。これに関しては百パーこちらに非があるので許してもらうほかなかった。
「で、夏目さんの用事はもう済んだんですか。臆病な自尊心と尊大な羞恥心とか聞こえてきましたけど」
「うん。そっちはオッケー」
「それならいいですけど……缶コーヒーくらい奢ってくださいよ」
意外と厚かましいな。変に図太い野良猫みたいだ。けどそれで機嫌を直してくれるなら安いものかと私は彼と共に自動販売機へ向かうのだった。
要くんはやはり実年齢より少し大人びているみたいでそれは好みの飲み物にも表れていた。比較的甘めのカフェオレを選んだ私に対して生意気にもブラックコーヒー。しかもゴクゴクと。私は今でも砂糖とシロップが必要なのに。
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