第8話


 外に出ると途端にムワッとするような湿っぽい空気に包まれた。それは湿気からくるものなのか帰宅するサラリーマンから醸し出される瘴気なのか。

「外、明るいな」

 考えてもみればもうすぐ夏至だから当然なんだけどなんとなく脳がバグる。もう十九時になるってのに。と、こうしちゃいられない。早く帰らなきゃ。干しっぱなしの洗濯物を取り込んで明日の朝に出すゴミをまとめて、それから私服に着替えて……。そこまで考えたところで足が止まった。後ろから歩いてきたサラリーマンがぶつかりそうになったのか、舌打ちをしながら僕をかわしていく。往来のど真ん中で止まる僕も僕だけどもっと間隔とって歩けよ。


 でも本当に色んな人がいるな。飲み屋やスナックに消えるサラリーマン。ゲーセンにでも寄ってきたのか、大きなぬいぐるみを多数抱えた女子高生の集団。大きなバックパックを背負った外国人観光客。みんな今にもスキップを始めそうなくらい歩調が軽快だ。

 それに対して僕はどうだ。自分だけ倍近い重力を感じているような鈍い足運びでヨロヨロフラフラと。

「何やってんだろ、僕……」

 母さんの店を手伝ってるから昼夜逆転とまではいかないけど不規則な生活を送っていて、そのせいで日中はどうしても眠くなる。それどころか朝が起きられない。目覚まし時計を複数用意したり五分おきに鳴るようにスヌーズをセットしても全く効果がない。ダメな時は徹底してダメだ。気づいた時には朝の十時だったり昼を過ぎていたり……。


 姉ちゃんと一緒に暮らしてた頃が一番楽しかったな。寝坊しても起こしてもらえたし、ホカホカの朝ご飯だってあったし。もうずいぶん昔の話だけど昨日のことみたいに思い出せる。

 また姉ちゃんと一緒に暮らしたい。でも僕とは十三も離れてるから生活リズムが全然合わないか。そもそも結婚していてもおかしくない歳なんだから。

 

 姉ちゃん、そっちでは楽しくやってる? 僕はもうくたびれたよ。やりたい事もなくて毎日毎日神経をすり減らしながら生きてるって感じ。ただ、どうしようもないってほどでもないんだ。そこまで行くと多分みたいなことになっちゃうんだろうね。あんな風に最後まで人に迷惑をかける生き方だけはしないように心掛けてるんだけどどうにも上手くいかなくてさ。今でも新しい先生に余計な心配をさせてるみたいなんだ。どうしたらいいかな。


 答えなんて返ってくるはずがない。なのに僕は送る宛てのない手紙でも書くように思いの丈を綴ることがある。かなり末期の症状だな。いっそ病院で診てもらうか。でもどこを受診すれば良いんだろう。心療内科? まさか精神科?

「行けるわけ、ないよなぁ……」

「どこに?」

「うわっ」

 誰だ、なんて思う間もなかった。ていうかこんな真似をする人なんて他に思い浮かばない。背後霊よろしく僕の肩越しにヌッと現れたのはやはりというか飛鳥井先生だった。

「……よく会いますね、先生」

「ご近所さんだからね」

 僕は先生の家がどこにあるのか知らないけど先生曰く『目と鼻の先』くらいの距離らしい。


「今日はもう仕事終わったんですか?」

「うん。今帰るトコ」

「そうですか、それじゃ」

「いやいやいやちょい待てぃ」

 きびすを返した瞬間に手をガシッと掴まれた。急に名前を呼ばれた時よりも驚いた僕は往来のど真ん中で年上の女の人と手を繋ぐという青春映画みたいなシーンが恥ずかしくて思わず振りほどいてしまったんだ。あぁもう心臓がうるさいな。しかも今すごく暑い。体温が急激に上がったような感じだ。くそっ、店の客で耐性がついてるはずなのに。

「おっと、ごめんごめん。ビックリした?」

 先生は手を振り払われたにも関わらず気を悪くすることもなく僕の心配をしてる。それがまた子ども扱いされてるみたいで僕の心はグチャグチャになりそうだった。


「先生、普通こういうのは手じゃなくて肩を掴むもんじゃないですか」

「だってこっちのほうがシックリきたんだもん」

 もん、じゃないよ。自分の歳を考えてくれ。

「ところで要くんや。キミこんな所でなにしてんの。まだ制服だしどこか寄り道でもしてた?」

「……別になんだっていいでしょ。僕だって寄り道くらいしますよ」

 ついさっきまですぐそこにある母さんの店で手伝いをしていた、なんて言えるわけないから嘘を吐いた。ちょっとだけ罪悪感があるな。

「ふぅん。ま、そういうこともあるか。夜遊びはホドホドにね。それじゃ」

「あ、はい。さよなら……」

 また絡まれるかと身構えていたからアッサリ身を引かれると調子が狂う。僕は自分でも無意識の内に手を中途半端に前へ差し出していて、それが未練たらしく先生を呼び止めようとしてるようで情けなかった。

「なんで残念がってんだよ……」

 一瞬だけ繋がった先生の手は血の巡りが悪いのかヒンヤリとしていて、蒸し暑い今の時期にはとても心地が良かったんだ。

 


よし。今日は目覚まし時計のスヌーズ機能の世話にならずに起きられた。昨日は約束通り母さんが早めに上がらせてくれたからいつもと比べると二時間くらい長く寝られてそのぶん頭もスッキリしてる。でも心地よい朝を迎えられたのはそれだけが原因じゃないような気がするんだ。

 上体だけを起こした布団の上で自分の手のひらを見つめる僕。なんの変哲もなく、飾り気もなく、少し乾燥して荒れ気味の手。先生の手は体温が感じられないほど冷たかったけど瑞々しくてすべすべしていた。そしてどことなく懐かしかった。


 こんな風に感触を思い出そうとするなんて控えめに言っても気持ち悪いな……。せっかく早く起きたんだからちゃんと朝ご飯を食べて学校に行こう。でも昨日のことがあるからちょっとだけ先生の顔を見るのが恥ずかしい。

「バカバカしい。なに照れてるんだか」

 先生も先生だ。仮にも男の僕の手を掴むことに対して躊躇がなさすぎるんじゃないか。このご時世だからもしも性別が逆だったら保護者が突撃してくる可能性まであるだろうに。

 いや、分かってる。どうせ先生は僕のことなんてこれっぽっちも男だと意識してないんだろうさ。せいぜい『厄介事を持ち込む問題児』程度にしか思ってないんだろうな。


「ズルい人だよ、みんな……」

 母さん。先生。そして姉ちゃん。一体どれだけ僕の心を掻き乱せば気が済むんだ。まぁいい。そろそろ支度しなきゃなんの為に早く起きたのか分からなくなる。時間もあるんだしちょっとシャワーでも浴びよう。いまだに冬用の布団で寝てたからどうも体が熱ぼったいんだ、なんて考えながら立ち上がった時だ。スマートフォンがけたたましく鳴り響いたのは。

 しまった。スヌーズを切ってなかったっけ……じゃない。音が違う。プルルルルルという規則正しい電子音、これは電話だ。こんな朝早くに誰だ? (プルルルルル)ただでさえ友だちのいない僕のスマホはセルフマナーモード状態だというのに(プルルルルル)おまけに画面に表示された番号は全く知らないものだった(プルルルル)やだなぁ(プルルルルル)知らない番号とか出たくないんだけど(プルルルルル)

 いいや、無視しよ(プルルルルル)そもそもこんな時間から掛けてくるなんて非常識にも程があるだろ(プルルルルル)まだ寝てたらどうするんだ(プルルルルル)


「あーもう!」

 根負け。いっそ切ってやろうかと思ったけどこの手のヤツは諦めが悪いから何度も掛け直すに違いない。はぁ、朝から厄日確定だよこんなの。

「もしもし」

〈お、ちゃんと起きてるじゃん。えらいえらい」

 こ、この人を甥っ子扱いする世話焼きおばちゃんみたいな声は――

「……先生?」

〈ほかに誰がいるのよ〉

「いや、だって知らない番号だったから」

〈知らないってなんで登録してないのキミ。四月に渡したプリントに私の連絡先書いてあったでしょ〉

 ヤバい。全然心当たりがない。多分そのプリントはロクに確認もせずに丸めてポイしちゃったな。バレないように誤魔化さなきゃ――

〈さてはすぐに捨てたな?〉

 ――秒でバレた。


〈まぁその件はあとで詰めるとして、とにかく起きてたんなら良かったよ。もし繋がらなかったら迎えに行くつもりだったから〉

「いや、それは勘弁……」

〈だったらサボらずにちゃんと来ること。分かった? それじゃまた学校でね。寄り道しないのよ?〉

「分かってますよしつこいなぁ」

〈しつこく言わなきゃ言うこと聞きそうにないキミが悪いの〜〉

 そう言って電話は切れた。終始ペースを握られっぱなしで軽くムカついた僕はスマホを枕に叩きつけようかと思ったけどこんなことで疲労を重ねてちゃ学校へ着くまでにバテてしまいそうなのでなんとかこらえた。


 ここ最近の様子を鑑みるに、どうやら僕はあの人に目をつけられているらしい。明らかに面倒ごとを避けていた去年の担任とは大違いだ。それが良いか悪いかを判断するためにも僕はもっと先生のことを知らなければならないみたいだ。年齢とか既婚かどうかとか学生時代のこととか。可能なら弱みを握れたら良いんだけどどうしたもんか。とりあえず学校に行きながら考えよ。

 

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