第5話

 *


「どうぞ。さっき作ったのであんまり冷えてないですけど」

「あ、ううん。お構いなく」

 自家製麦茶が入ったプラスチックの容器からグラスに並々と注がれた琥珀色の液体は言葉の通りぬるく、申し訳程度に添えられた氷は早くも小さくなっている。でも素朴な味がして美味しいし、なにより懐かしく感じた。

「驚きましたよ。なんとなく黄昏れてただけなのに急に知らない女の人からタックルされたと思ったら昨日会った人だったんで」

「だ、だからさっきから何度も謝ってるじゃない……」

 グラスを両手で持ったまま体を小さくする私。穴があったら入りたいとはこのことだ。


「しかも教師だったなんて。おまけに僕の担任。飛鳥井先生でしたっけ。今年からウチの高校に赴任したそうですね」

「う、うん……」

「さっきも言いましたけど本当にビックリです」

「こんな偶然があることに?」

「それもあるにはありますけど、僕が驚いたのはたった一日休んだだけで教師が家にまで来たことです」

「あーそっち? たった一日って、始業式の日に無断欠席でもされたら心配になるでしょ」

「そうですか? 僕が教師なら『ただのサボリだな』としか思いませんよ。どうせ午前中で終わるんだし」

「まぁサボリならサボリでもいいんだけど連絡くらいはして欲しかったなぁって。ひょっとしたら事故か事件にでも巻き込まれてるんじゃないかって気が気でなかったんだから」

「おおげさですよ。それに高校生はもう義務教育じゃないんだから来ないなら来ないでほっといたって良いと思いますけどね」

「バカ言うんじゃありません。高校生はまだ子どもなんだから大人がしっかり面倒見ないといけないの」

「去年の担任も初めはそうやって熱血教師感を出してましたけど一学期が終わるころには諦めてましたよ」

「それは残念でした。私は諦めだけは悪いしぶとい生き物だからそうはいきません。今日だってキミの口から『明日は行きます』って聞くまでは帰らないよ」

「うわ、ウザ……」

 本気で嫌がってる表情をされた。腹立つなぁ。ようし、こうなったらこっちにも考えがあるんだから。


「マセガキめ」

「え?」

「ちょーっと成熟してるからってこまっしゃくれちゃってさ」

「こまっしゃく……え? なんです?」

「その言葉の意味が知りたければ明日は来ることね。私、国語教師だから」

 お、ちょっとムッとした表情になった。よしよし。男の子をその気にさせるなんて簡単なんだから――

「じゃあ今スマホで調べます」

「……」

 くそぅ。私が子どものころはそんなに便利な物なんてなかったのに近ごろのガキンチョは道具だけはいっちょ前に揃ってるんだからタチ悪いわ。


「へぇ、こまっしゃくれてるって言動なんかが大人ぶってて生意気な子どもって意味なんですね」

「そーそー。まさにキミみたいな子のことよ」

「あからさまにやる気なくさないでくださいよ。先生のほうが子どもみたいじゃないですか。ってかそろそろ帰ってください。僕の無事を確認するっていう当初の目的は達成したでしょ」

「いーやまだだね。キミの親御さんと連絡ついてないし」

 今度はひときわ大きなため息を吐かれた。私が招かれざる客だということは重々承知しているけどもうちょっとこう、手心と言うか、ねぇ。


「母さんなら仕事に行ってるんで無駄ですよ」

「忙しくて繋がらない感じ?」

「いえ、夜の仕事なんでどっちかというと寝てて出ないのかな。スナックのママだから」

「あー……なるほど。あ、じゃあ何回も電話したの迷惑だったかな」

「さぁ。今日は帰ってきてないから分からないです」

「帰ってきてない?」

「母さん、スナックに泊まることが多いんですよ。一応自分の店だから愛着があるらしくて」

「自分の、ねぇ。だったらお店の電話番号教えてくれる?」

「……嫌だって言ったらどうします?」

「教えてくれるまで居座る」

 要くんが苦悶の声を漏らした。なんだかこのまま永遠にからかっていたくなっちゃう。そんな趣味はないはずなんけど。


「ジョーダンよ」

「……は?」

「今日はキミの元気な顔が見られたらそれで良かったの」

「は、はぁ」

「ただ、やっぱり家に帰ってこないのは問題大アリだからいずれちゃんとお話しする時間は設けるよ」

「無駄だと思いますよ。あの人、話通じないし」

 母親を”あの人”呼ばわりか。それにこの態度から察するに親子関係は良好とは言い難いな。おっかないお母さんとやらの話題はしばらく避けるべきか。

「とにかく明日は学校に来なさいね。待ってるから」

「……善処します。それにしても先生、やけに物分かり良いですね。もっとしつこいのかと思ってました」

「その方が好きならしつこくしようか?」

「遠慮します……」

「ふふ。それじゃあまた明日ね。あ、お茶ありがと」

 立ち上がり際に私は要くんの頭をクシャクシャっと撫でた。嫌がられるのも計算のうちだったけど特に抵抗されなかったのは意外だった。


「先生って弟とかいました?」

「いないけど……なんで?」

「いえ、なんとなく。慣れてそうな感じだったので」

「そう? まぁ、小さな男の子とは昔からよく遊んでたからそのお陰かな」

「近所に住んでた子とか?」

「なに、どうしたのさ。やけに食いつくね」

 すると要くんはちょっといじけた様子でそっぽを向きながら「別に」と言った。

「ところでさぁ」

「なんです?」

「キミ、その服小さくない? 前会った時も同じの着てたよね」

「……よく覚えてますね」

「そりゃ覚えるよ。印象に残るもの。」

 袖は手首に届くかどうかで、ちょっと屈んだらすぐに背中が見えてしまう小さなパーカーが気になってしょうがない。

「僕は物持ちがいいんですよ」

 少し寂し気に言った彼の本心を知るのはまだ先の話みたい。



 翌朝。普段より気持ち清々しい朝を迎えた私は足取り軽く教室へ進んだ。全員が揃う今日が私のクラスの第一歩なのだと意気込んで扉を開け、「おっはよー」と挨拶をする。そこまでは良かった。

「……あら?」

 おかしい。昨日と同じ席が空いたままだ。変だな、約束したのに。お寝坊さんか、と首を傾げていたらメガネと三つ編みが似合う文学少女の夏目さんがおずおずと手を挙げて「あのー、先生」と。

「どしたの?」

「要くんから伝言……というかメモを預かってるんですけど」

「え、要くん? え、え、メモ? 今日来てたってこと?」

「はい。これ……」

 夏目さんの手に握られていたのは折り畳まれたノートのページだ。それを開くと、こんなに大きな紙を使ったんだからもっと有効活用しないと言いたくなるほど小さな字で『ちゃんと来ましたから。でも今日は大事な用があるので帰ります』と記されている。私は震える手でそれを握りつぶした。

「あ……あ……あんのガキャー!」

 教室内に虚しく響き渡る私の声はホームルームの開始を告げるチャイムによって簡単にかき消されてしまうのだった。

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