第4話

 迎えた翌朝。担任を受け持つ二年一組の教室に入った私はひとつだけ空席があることに気が付いた。新学期早々遅刻とはなかなか肝が据わった生徒らしい。さてどんな子だろうかと出席簿を確認すると名前はかなめくんと言うようだ。

「ねぇ、この要くんって子は?」

 軽い気持ちで聞いたんだけどちょっとだけ教室がざわついた。その反応を示したのは一クラス三十五人中ざっと二割。残りの八割は『誰それ?』って感じの様子だ。それでいて誰も返事をしてくれない。まぁ無理もないか。異動してきたばかりの私はみんなからすればまだ余所者同然だもんね。仕方ないからさっき反応を見せた男の子が教卓からほど近い席にいたので身を乗り出してみる。おっと、露骨に『うわ、捕まった……』みたいな顔するなよ。


「ねぇキミ。えっと――」

 名前名前。

「田中くんね。田中くん、この要くんって子まだ来てないみたいだけど何か聞いてる?」

「いや、知らねっす。先生のほうにこそ連絡来てないんですか?」

「それがなーんにも聞いてないのよ。じゃあサボりかね」

「さぁ……でもアイツ、しょっちゅう休むんで多分来ないと思いますよ」

「しょっちゅう?」

「はい。俺、去年も同じクラスだったんすけどアイツ出席日数足んなくて留年するんじゃねーのってくらい休むんすよ」

「それは聞き捨てならんなぁ。理由とか知ってる?」

「いや、そこまでは……」

「オッケー、ありがと」

「うっす」

 欠席日数が多い場合、そのほとんどが病気やケガによる長期入院。あるいは家庭環境に問題があるか。


「あ、そうだ。去年の担任の先生に聞けばいいんだわ。田中くん、一年生の時の担任って誰だった?」

「もういないっすよ」

「へ?」

「別の学校に行きました。飛鳥井先生と同じ異動ですよ」

「アチャー……」

 私は思わず手で顔を覆った。教師に異動はつきものだけどよりによって……。

「仕方ない。あとで親御さんに電話するかぁ」

「いや、アイツの母ちゃんおっかないんで止めといたほうがいいっすよ」

「おっかない? どんな?」

「えっと、去年の担任が異動したのも半分はその母ちゃんのせいなんじゃないかって噂になるくらいには」

 ははぁ、なるほど……。これは先が思いやられるわ。



 *


 もう何度数えたか分からないコール音が虚しく響き、私はため息と共に机に突っ伏した。

「出ねぇぇぇ……」

 始業式後、一限目、二限目、三限目が終わってから何度も電話を掛けたのだけど要くんのお家は誰も電話に出なかった。ご両親は仕事だから家を空けてるのかもと考え、緊急連絡先に登録されている携帯電話にも掛けてみたけど不発。

 今日は午前中で終わりだから帰りのホームルームも済んじゃってあっという間に放課後を迎えてしまった。なので欠席はもう確定なのだけどこの様子だと明日も来ないんじゃないかと心配だ。


「なーに飛鳥井先生。今日もため息なんか吐いちゃって」

「あ、丸井先生」

 顔だけをノロノロと動かすと目の前に缶コーヒーがトン、と。くれるのか。嬉しい。

「で、どうだった? 実質的には今日がウチの学校での初出勤みたいなものだったけど」

「あー、それはもう、イイ子たちばかりなので全然心配してないです。ある一点を除けばですけど……」

「ある一点? どしたの。問題児でもいた?」

「いや、問題児というかなんというか……。とりあえず無断欠席及び家とご両親に連絡がつかない生徒が一名いまして」

「あーらら……」

 さすが百戦錬磨のベテラン先生なだけあって私の反応だけでおおよそ察したらしい。


「初日から無断欠席ねぇ。ちなみにどの子?」

「要くんっていう男の子なんですけどご存知ですか?」

「あー……要くんかぁ。うん、知ってるわ」

「ホントですか!?」

「うん。私は去年要くんのクラスに数学教えてたから。それにね、あの子は教員のあいだではちょっとした有名人なのよ。いい意味ではないけど」

「有名人ですか……。去年、要くんと同じクラスだった子も似たようなことを言ってましたよ。しょっちゅう休むから留年スレスレだとか」

「なんだ、知ってるんじゃない」

「あと、お母さんがおっかないとかなんとか」

 軽い気持ちで告げたら丸井先生が急に挙動不審になってキョロキョロと辺りを窺った。この温度差はいったい……。


「あの、丸井先生——」

「飛鳥井先生、悪いことは言わないわ。その子に深入りはしないことね」

「え、ちょ、それってどういう意味ですか。そんな、問題児だから触れないほうがいいみたいな……」

「そこまでは言わないけど、要くんの問題に首を突っ込むなら生半可な覚悟じゃ済まないわ。考えてもみなさい。私たちは普段から何百人の生徒を相手にしてる。それだけじゃない。担任を受け持ったクラスの生徒を三十人以上しっかり見守らないといけない。そんな状況でたった一人だけエコひいきできる? 時間は有限なのよ? ただでさえ教師は忙しすぎて成り手がいないんだから」

「エコひいきするつもりなんてありませんよ。ただせめて現状だけでも把握しておかなきゃって。お母さんがおっかないって言った程度で話がこんなに大ごとになるってことはよほど家庭に問題があるとしか思えませんよ。それで出席日数が危うくなるくらい学校に通いづらくなってるんだとしたらそれをサポートするのが教師というものだと思いますし」

 少しばかり熱くなっても丸井先生は絆されることなく「今時そういう熱血教師は流行らないわよ。昭和の学園ドラマの見過ぎじゃない? 再放送でもやってた?」と言う始末。


「若いわね飛鳥井センセ」

「……」

「褒めてるのよ。情熱があって羨ましいってこと」

「ど、どうも……?」

 いまいち釈然としない。素直に褒められてる気がしなかった私は口をとがらせたくなった。

「ただこれだけは言っておくわ。私たちに与えられた使命はね、多感な時期のよそ様の子を三年間預かって無事に卒業させる。それだけで充分なのよ。分かるでしょ?」

「それは……はい」

「そのうえでどうしても首を突っ込む必要があると思うのなら家庭訪問でもしてみたら? 後悔することになると思うけど」

 そう言われた瞬間、ピリッと頭に電流が走ったような感覚があった。なんだっけこれ。天啓が降りるってこういうこと?


「なーんて本気にしないでよ。連絡がつかないんじゃアポの取りようもないし――」

「それだー!」

「えっ、いや、ちょっと飛鳥井先生。今のはその場のノリ……」

「丸井先生。今日って職員会議とかありませんでしたよね」

「な、ないけど」

 そうとくれば話は早い。プリントを作ったり授業の準備とか色々あるけど個人の仕事なんて最悪後回しにしてもなんとかなる。

「丸井先生。私ちょっと行ってきます」

「え、あ、飛鳥井先生ー? 無鉄砲にもほどがあるってー!」

 私は丸井先生の悲壮とも言える叫びを背中で聞きながら職員室をあとにした。無鉄砲無計画向こう見ずで結構。私みたいな勢いだけが取り柄のパンピーは当たって砕けろの精神でぶつからなきゃいけないんだ。

 大丈夫。この程度の困難なんて昔に比べれば断然マシだもの。時間は有限。与えられたチャンスは無駄にしないよう生きないとあの人に申し訳ない



「地図だとこの辺のはず……お、あった」

 要くんの家は学校から徒歩で通える所にあるマンションだった。築三、四十年ほどの歳月を感じさせる外壁にはヒビが入っている箇所もあり、元は純白だったんだろうけどくすんでクリーム色になりかけていた。が、私にとっての問題はそこじゃなかったんだ。


「よりによって五階建ての五階に住んでるのかぁ……」

 五階建ての高さだとエレベーターの設置義務がない。それでも利便性や居住者の年齢を考慮して設置されていることはままあるけど、こんな風に古いマンションだと未設置の所が多いのが実情だ。しかし困った。私は勢いだけはあるものの体力がないので五階までノンストップで上がるのはなかなか骨が折れる。

「まぁ、行くしかないんだけど……」

 軽くストレッチをして心拍数を上げてからエッチラオッチラと歩みを進める私。一段飛ばしなんてバテるから絶対やらない。それでも少しずつ心臓が疲労を訴えてくる。足はまだまだ上がるのに息だけが続かないなんて厄介な身体だ。伸縮性に優れたスラックスで良かったぁ。こんなのタイトスカートとピンヒールで臨んだ日にはエライことになるわ。


 コンクリートが剥き出しで手すりもなく、一段一段がやけに高い階段を登り続けること数分。息も絶え絶えになった私は最上階に到達した途端に両膝に手をついた。四、五年前と比べると明らかに心肺機能が劣化してる。

「あーしんど……。っていうかなんでほかの先生方はこの問題を放置してんのよ。要くんのことも親のことも今日初めて聞いたっつの」

 無駄に歩かされたことで私は少しばかりイラついていた。だがその感情が一瞬にして霧散する光景が私の目に飛び込んできた。ざっと十メートルくらい離れた先に両手で手すりをギュッと掴む少年がいたんだ。決意に満ちた眼差しが横顔からハッキリと窺える。しかも裸足。


 え、ま、まさかひょっとしてひょっとしちゃう……? でもそれ以外に悲壮感を漂わせて手すりを掴むことなんてある? なんだか今にも乗り越えそうだし、わりと近くにいる私に気付かないのも視野が狭まってると考えれば辻褄が合う。

 ヤバい――。そう思ってからの行動は早かった。バテバテなくせに私の体は百メートル決勝のスタートかってくらい勢いよく飛び出したんだ。もちろん実際にはそんなわけないんだけどあくまでも気持ちの上ではだ。


「待ったー!」

「えっ? うわっ」

 ダイビングキャッチよろしく少年の体を抱き止めた私は勢い余ってそのまま倒れ込んでしまう。コンクリートにぶつけた膝が痛かったけど私は体勢を立て直すこともせずに「なにバカなことやってんの!」と怒鳴った。

「……急になにするんですか」

「なにってキミねぇ――あ」

 その段になってようやくお互いの顔を認識した私たちの反応は似たようなものだった。目をぱちくりとさせ、口は中途半端に空いたまま。何故かって、私が飛び込んだのは今のところ人生最後に知り合った男の子だったんだから。

「キミ、昨日の……」

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