第3話

☆  飛鳥井あすかい こころ


二〇二三年 四月九日 始業式前日

 

 昨日かけ直したパーマの毛先を指にクルクルと巻き付けながら私は自分のデスクに置いた出席簿を前に唸った。淡い夕陽が差し込む職員室は仄かにコーヒーの香りが漂っていて先月までならリラックス出来る空間だったんだけど今はそうでもない。この春に人事異動があり、大学を卒業して六年勤めた高校から離れたばかりなので緊張してるのかも。


 初めての勤務先では新人ということもあって色々なサポートを受けた。年配の先生からは自分の子どものように可愛がってもらったし、私が若い女ということもあったから生徒からもそこそこ人気があって、端的に言えば良い思い出が多かった高校を離れるのは嫌だったのだ。まぁ、そんな私も今年で三十路なので言うほど若くないんだけど。そろそろお節介なおっさんおばさんが結婚を急かしてくるんだよなぁ。ウザ。結婚でもしようものなら旦那を苦労させる未来が容易に想像できるんだよ。


 私の唸り声を聞いたからか、隣の席のちょっと丸っこいおばちゃんこと丸井先生が見かねて「さっきからため息ばかり吐いてるけど大丈夫?」と心配してくれた。異動の挨拶に来た時に真っ先に話しかけてくれた気のイイ先生だ。この人は先の”お節介焼きなおばさん”とは対極の存在だから好き。それはさておき、ため息ばかり?

「私そんなにため息吐いてましたか?」

「えぇ。はぁ、やら、うーん、やら何度もね。よくそんなにため息のレパートリーを揃えられるもんだわって感心してたところ」

 私は苦笑いしながら謝った。まさか自分でも気づかないほどとはね。


「何か悩みでもあるの? 異動は初めてだから緊張してるとか?」

「まぁ、そんなところですねぇ」

「そんなに身構えなくても大丈夫よ。ウチの生徒はみーんな真面目でイイ子ばかりだから。ほかの先生方もね」

「そう言って頂けると心強いです。先生にも私と同じ新米だった頃があったんですよね」

「そりゃそうよ。しかも昔はね、こう言っちゃ悪いけど結構レベルが低い高校に勤めてたから余計に今の学校との差が浮き彫りになるっていうか……偏差値なんて四十だったし。ウチとは十五違うから」

「あー……はい」

 なるほど。言わんとしていることはだいたい理解出来る。だけど指標のひとつしてならまだしも教師が偏差値で子どもを判断するような真似はしてほしくない。丸井先生も教師として二十年以上学校教育に関わっているからこそ辿り着いた答えなのかもしれないけど。


「でも偏差値が高いなら高いで別の悩みもありません? 難関大学への進学実績を作らないといけないだとか、県内偏差値ランキングで十位以内に入らなきゃ生徒が集まらないだとか」

「そうねぇ。それで高校を選ぶ子も沢山いるし」

「丸井先生も学生時代はそのクチでした?」

「私は家から近いところにほどほどの公立校があったからそこにしたわ」

 それを聞いた私は体の力が一斉に抜けた。話の流れからして丸井先生も偏差値で学校を決めたかと思ったのに。

「とにかく今は少子高齢化やらなんやらでどこも生徒を集めるのが大変だから飛鳥井先生にも頑張ってもらわなきゃね」

「荷が重いです。そんな期待されても……」

「なーに言ってんの。飛鳥井さんみたいな若い先生がちょーっと男子中学生を口説けばイチコロよ」

「は、はぁ」

 丸井先生からすれば私でもまだ若い人扱いか。こういう時は曖昧な笑みで返すに限るな。っていうかイチコロってひさびさに聞いたわ。


「まぁほどほどに頑張んなさいな。一言アドバイスできるとしたら、何かあったらすぐに人を頼ること。自分だけで抱え込まないようにね」

「はい。そういう時は真っ先に丸井先生を頼ります」

 困った時に相談しやすい先輩がいるのはとても心強い。これならなんとかやっていけるかな。


 その日の帰り道、近所のスーパーで夕飯の買い物をしていると半額シールを貼られたお弁当がひとつだけ残っていた。夕飯時になるとだいたい全滅しているんだけど今日は運が味方してくれたみたいだ。手作りカツ丼かぁ。普段は脂っこいものだと避けてるんだけど今日くらいはゲン担ぎも兼ねて食べてみよっかな、と手を伸ばしたら誰かの手とガッチンコ。

「あ、ごめんなさい」

 反射的に手を引っ込めて相手の顔を見ると予想に反して若い男の子だった。袖と丈が絶妙に足りてなくてもうちょっとでお腹が見えそうなパーカーとこれまた小さめの七分丈ズボン。おまけにサンダルというラフなスタイルに華奢で色白な手だったから初めは女の子かと思ったくらいだ。


「僕のほうこそすみません。それ、どうぞ」

「え、いやいいよ。キミが食べなよ」

「でもあなたの方が早かったし……」

「ううん、本当にいいの。私、脂っこいもの苦手だから」

「……苦手なのに食べようとしてたんですか?」

 長いまつ毛をしばたかせながら男の子が訊ねる。こうして見ると整った顔立ちだ。中世的で全体的に色素が薄い。最近は男らしいタイプよりこういう子のほうがモテるんだよねぇ。しかも夕飯時にスーパーへ買い出しに来る程度には家庭的ときた。買い物カゴの中身は徳用二リットルペットボトルのお茶と六本組のバナナ、同じく六本組のスティックパン。それでカツ丼を取ろうとした、と。ふむ。

 それはそれとして男の子は手を顎に当てて何やらブツブツと――

「苦手なのに食べようとする……新手のマゾヒストなのかな」

「これこれ。聞こえとるぞ」

 初対面なのになかなか失礼なことを宣う子だ。随分イイ度胸をしてると見える。やっぱりさっきのは撤回しよう。モテてたまるか。

 それにしても今のやり取り、なんだか覚えがあるような。なんだったらこの子の顔も見たことがある気がする。はて、どこで? 


「ねぇキミ。私とどこかで会ったことない?」

「え、なんですか。よくあるナンパの手口ですか。そういうのはお断りしてます」

「またまた失礼だな」

 なんかちょっとイラついてきたぞ。いかんいかん。子ども相手になにムキになってるんだか。

「僕もあなたもこのスーパーで買い物してるくらいだからご近所さんなんでしょ。だから知らず知らずのうちにすれ違って顔を見てるんだと思いますよ」

「キミもここに来ることが多いの?」

「まぁ、それなりには。家のおつかいで」

「へぇ、おつかいかぁ。感心感心。なるほどね。それなら偶然すれ違ったとしてもおかしくないか。そう言われたらそんな気がしてきたわ」

「でしょ。じゃあ僕はこれで」

 そういうと彼はそそくさとこの場を立ち去ろうとした。いかにも面倒ごとには巻き込まれたくないといった様子だったのでついイタズラ心が働いてしまった私は、竹の内側のように細く青白い彼の手首をむんずと掴んでそれを制した。うわ、マジで腕ほそっ。ひょっとして私のほうが肉付きが良いのでは。

「……なんのつもりですか?」

「いや、なんとなく?」

「なんとなくでこんな事されたら困るんですけど」

「まぁまぁ。とにかくこのカツ丼はキミが食べなさい。随分スリムだけどちゃんとご飯食べてる? 育ち盛りのうちに栄養つけないと背ぇ伸びないよ」

「大きなお世話です。だいいち、高二の春で一六五あれば充分でしょ」

 振り払われてしまった。年ごろの男の子相手にはちょっとよろしくない対応だったかな。

「なるほど、高校二年生ね。どこの学校?」

「いや、知らない大人に教えるわけないじゃないですか。高二って言っちゃいましたけど」

「もう知らない仲ではないでしょ。これだけ話してるんだし」

「……屁理屈。っていうかなんでそこまで僕のことを気にするんですか」

「教師だから」

「教師?」

「そ。なんとなく危うい子どもを見かけると心配になっちゃうのさ」

 すると彼の目が少し警戒心を帯びたように見えた。まんまるだった瞳孔を縦長にした猫みたいだ。

「僕のどこが危ういって言うんですか」

 心なしか声にまでトゲが。でも私は大人なのだ。これくらいで怯んだりはしない。それにこういう反応を示すってことは私の予想がイイ線いってるってことだ。その証拠に無言でカゴの中身を指差すと彼は露骨にそのカゴを後ろに回したんだから。


「おつかいって嘘でしょ」

「嘘じゃないです」

「強情だねぇ。素直に吐いちゃったほうが楽だよ」

「あの……俺、忙しいんでもう失礼します」

 職業柄、こういういじっぱりな子の相手は慣れてる。ここは攻めすぎずに静観すべしだと内なる私も囁いてる気がするし、そろそろやめておこうか。

「またね」

「……どうも」

 『またね』と返すべきか『さようなら』と言うべきか迷ったんだろうと思わせる間を残しつつ男の子はレジの方へ向かって行く。生鮮食品や冷凍モノのエリアに立ち寄る気配すらなかったのはとっとと私から離れたかったのか、あるいは。いずれにせよご近所さんらしいからちょっとだけ気にしておこうかな。

「っていうかあの子、結局カツ丼買ってないじゃん」

 仕方ないから私が食べるか。本当はお寿司とか食べてみたいんだけどなぁ。


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