第35話そして、現実の威力!


「さて、と」


欠伸を噛み殺しながら竜崎は社用車ベンツに乗り込む。

まだ彼の本日の仕事は終わっていない。それを果たすべく、元来た道を走らせるのだった。



夜が明け、神谷家の朝が始まる。

……と言っても彼らの朝は遅い。

茂典は閉店までパチンコに精を出していた為まだ眠っているし、美恵も似たようなものだ。

二人とも普段は昼近くまで寝ている為、息子である正明は一人で学校の準備をして登校している。


「行ってきます」

「はぁーい……」


そんな息子の声を夢見心地で聞きながら、美恵はぼんやりと身体を起こすと冷蔵庫へ向かう。

珍しく早起きした彼女は低血圧に耐えながらパック牛乳をそのまま一口飲み、賞味期限の切れかけた菓子パンを口の中に放り込んだ。

この家では基本、料理は行われない。

美恵は水仕事で手が荒れるのを嫌っているし、茂典はキッチンに寄りつくことすらない。

必然、レトルト食品が多くなり、ゴミ箱はあっという間に一杯になる。

しかも洗いもせずに捨てる為、放置されたゴミ箱には蠅が集っていた。

飛び回る蠅に嫌な顔をした美恵はまだ眠っている茂典に声を荒らげる。


「んもう、ゴミ捨てくらいしてよぉ!」

「ウルセェな……それくれぇやれよ。家事は女の仕事だろが」

「それを言うなら働くのが男の仕事でしょ!」


確かに茂典は働いていないが、美恵もまた家事らしいことはロクにしていない。

どっちもどっちとはいえ、痛いところを突かれた茂典は彼女の機嫌を取るように猫撫で声で言う。


「んだよー。いいじゃねぇか金はあるんだから。元旦那の保険金、まだまだあるんだろ?」

「そりゃあまぁ、ねぇ……」

「あん時は俺も協力したじゃねぇか。だったら少しくらい支えてくれてもいいだろ? な?」

「……んもう、ズルいんだから……んっ、ちょっと……ゴミ捨て行かなきゃ……」

「いいじゃねぇか。そんなん後でよぉ。へへっ」


弱々しく逃げようとする美恵を押さえつける力強い腕。

満更でもなさそうにソファに押し倒された美恵がその逞しい首に腕を回そうとした、その時である。


「おーおー、朝っぱらからお盛んだねぇ。まさにケダモノだわ」


窓の外から聞こえる声に、美恵は飛び上がった。


「きゃあっ!?」

「な、なんだテメェは!?」


声の主――竜崎は窓ガラスの向こうで不敵に笑う。


「優斗くんの件で話がある。ここじゃなんだ。玄関を開けて貰おうか。……あぁ急がなくていいぜ。せめてもの情けだ。その見苦しい格好を直す時間くれぇはくれてやるからよ」

「……!」


以前訪れた時とは打って変わった冷徹な態度に、美恵は息を呑む。

その迫力には茂典すら言葉を返す余裕はなかった。



「……で、何の用だよ」


十五分後、どうにか調子を取り戻した二人は居間にて竜崎に応じる。

ゴミの散乱する部屋にやや眉を潜めながらも、竜崎はすぐ本題に取り掛かる。


「単刀直入に言う。こいつを見ろ」

「んあ……? 賠償請求だと? ……いち、じゅう、ひゃく……い、一千万だぁ!?」

「ど、どういうことよ! 私たちが何したってんのよ!」

「お前らはウチの大事な商品に手を出した……神谷優斗はスターチャイルドの看板アイドル予定でね。既に多くの金が動いている。その彼に暴行を振るったことに対する賠償金だ。一千万の根拠はほれこの通り。長年における虐待と精神的苦痛、その他諸々の判例から導き出された額だ。文句があるなら裁判所に訴えてくれ」


バサバサと並べられる資料に二人はどんどん青ざめていく。

彼らの頭では何が起きているか殆どついていけてなかったが、それでも何か言い返さねばいけないことだけは理解していた。


「ば、バカは休み休み言いやがれ! 俺たちがやったって証拠はあるのかよ!」

「そ、そうよ! いきなり出てきてそんなこと言われても……知るわけないじゃない!」

「いいや知っていたね。ウチとの契約書を破り捨ててる時点で既知なのは確定。そこにベッタリ付いたお前の指紋が証拠にもなる。まぁ他にも証拠は色々あるがな」


テーブルに投げつけられたのは茂典が優斗を殴ろうとする瞬間を捉えた写真や、以前追い返した児相からの通告書だった。


「……ッ!? ど、どこからんなもん……!」

「捨てていたはずなのに……!」

「ウチの見張りは優秀でね。使えそうなブツを色々手に入れてくれたんだよ。悪意なき攻撃であればここまで賠償金は行かなかったんだがな。お前らはあまりにやりすぎた」


これだけの証拠が揃っていれば言い逃れは難しい。

理解力に乏しい二人ですら嫌でも気づかざるをえなかった。


「そ、そんなこと言われてもそんな大金は持ってねぇ! ない袖は振れねぇよ!」

「ま、当然お前らの預金額くらいは調べてあるがな。ちょうど一千万、銀行に入っているだろう? 元旦那に多額の保険金をかけてたみたいだしな。あ、おろそうとしても無駄だぜ。既に根回しは終わって差し押さえて貰ってるからよ」

「ち、ちょっと待ってよ! 私たちは仕事もしてないのよ!? そのお金全部持っていかれたら、生活ができないじゃないのさ!」

「それは俺たちの知ったこっちゃない。……大体その金、本来は優斗に渡るものだろ? 安心しろ。お前らから奪った金は巡り巡ってあいつの給料に還元されるからよ。まぁ一千万程度、あいつが売れれば一日の稼ぎにもならんかもしれんがな」

「あ……ぁ……そんな……」


ガックリ項垂れる美恵。その横で茂典は怒りに全身を震わせていた。


「て、テメェ……! 黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって……ふざけんなァ!」


怒りに任せて殴りかかってくる茂典、その拳を竜崎は僅かに身体を傾けて躱した。

そして無防備な鳩尾に一撃、喰らわせる。


「お……ぐぁ……!?」


悶絶し倒れる茂典。ビシャビシャと胃液が辺りに飛び散り、据えた匂いが鼻を突く。


「言うのが遅くなったが……俺は優斗ほど優しくはないぜ?」

「あんた!」

「ごぇえ……!? ゲホッ! ガハッ!」


何度もむせる彼の背をさする美恵。

だが当たりどころが悪かったのか、それとも竜崎があまりに強かったのか、茂典は起き上がることすらできないようだ。


「……」


しばし介抱していた彼女は眉を顰めた後、思い立ったように立ち上がった。

先刻までの敵意に満ちた顔ではなく、媚びたような顔でしなだれかかる。


「ね、ねぇ竜崎さぁん……私だけでも助けてくれないかしら? だって違うの! 私この男に命令されてやったのよ!」

「てめ……何言いやがる……このアマァ……!」

「うっさいわね! そうでしょ! 元はと言えばあんたが元旦那に保険金かけて殺そう言ってんじゃないの! 私だって本当はやりたくなかったの! ねぇ信じてよ!」

「お、おいあんた! その女の子言うことなんか信じるんじゃねぇぞ!? 確かに俺も冗談で言ったが、ノリノリで計画立ててたのはこいつの方なんだからな!」

「黙りなさいよ!」

「んだとぉクソアマ!?」


互いに罵り合う二人。

あまりに醜いやり取りを一瞥し、竜崎は呆れたようにため息を吐く。


「……ま、好きにしろ。俺の方の用は終わったからな。そのうち裁判所から手紙が来るから震えて待ってるがいいさ」

「あ! 待って! どこへ……」

「交代だ。あんたたちに用があるのは俺だけじゃないんでね」

「へ……何を言って……?」


止めるのも聞かず出ていく竜崎と反対に、入ってきたのは警察官だった。


「こんにちはー。ちょっと以前の旦那さんのことで話を聞かせて貰っていいですか?」


にこやかに挨拶をする警察官だが、その目の奥は微塵も笑ってはいなかった。

更にその後ろには児相の職員、生活保護課職員が並んでいる。

その光景に二人は脱力、がっくりと項垂れるのだった。

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