ダッシュ!ダッシュ!!ダッシュ!!!

うたた寝

第1話


 雨が降っている。土砂降りである。

 屋根のある所から眺めている分には土砂降りだって愉快なものだが、この土砂降りの中帰らなければいけないのかと思うと憂鬱になってくる。帰る時には止まないかなぁ~、と彼女は腕時計で退勤まであとわずかと迫った時間を確認しながら、レジで頬杖を着いて外を眺めていた。

 彼女がアルバイトしているのはコーヒーショップ。カフェや喫茶店なんかは飲食店と違い、意外と雨の日の方がお客さんが来る日もあったりする。雨が止むまで時間を潰していようという雨宿り感覚なのかもしれない。しかし、流石にこの土砂降りの中来ようとは思わないものらしく、店の中はガラガラである。

 コーヒーショップでアルバイトしているからと言って、そのアルバイトがコーヒー好きとは限らない。彼女は普段コーヒーを全く飲まないし、何なら紅茶派である。

 そんな彼女が何でコーヒーショップで働いているのか? 身も蓋も無い言い方をしてしまえば、ここしか受からなかったのである。

 大体どこも募集しているアルバイトはレジ打ちなどの接客業が多かったが、この接客業のアルバイトの面接に中々受からなかったのである。何でか? 笑顔が可愛くないという嘘みたいな理不尽な理由である。

 そんなわけないだろう、こんな可愛い子が笑顔を作ってるのに、と思ったものだったが、自撮りしてみて思った。確かに笑顔が引きつっている。可愛くない、と言われても反論に困る顔ではあった。

 笑顔が原因なのであれば、真顔で受けてみたらどうだと思い受けてみると、今度は不愛想と落とされる。どうしろって言うんじゃ。接客業は諦めようか、と思っていた際に、このコーヒーショップに採用されたのである。採用した店長曰く、不愛想が面白かったらしい。もうよく分からない。

 おまけに不愛想が面白いで採用したくせに、みっちり笑顔の研修をさせられた。理不尽だと思う。研修時、作り笑顔とウソ泣きはやってればできる、と先輩社員に教えられた時はどうなることかと思ったが、案外言われた通りで、やっていればできるようになってくるものであった。ウソ泣きはまだ練習中だが。クレーム客が来た時に泣くと効果的とのことだった。

 カチッと、時計が12時の針を刺し、退勤時間となった。電波時計ではないので多少の誤差はあるかもしれないが知らん知らん。準備しているうちに退勤時間になるだろう。彼女がそっとレジを離れて店の奥に引っ込もうとしたところ、

 カランコロン……、と。店のドアが開いてお客さんが入って来た。

 間の悪さに内心『ちっ』と舌打ちしつつも、研修で身に着けた作り笑顔を浮かべ、普段の喋り声より気持ち高くした声で『いらっしゃいませ~』とお客さんを出迎える。やってればできるとは教わった通りで、ドアが開けば条件反射で何も考えなくてもできるようになってきていた。

 一見さんのお客さんなのだろうか。入って近くにあるメニュー表を見て固まっている。どこぞのコーヒーチェーン店みたいに小難しい単語は並んでいないハズだが。優柔不断なタイプなのかもしれない。

 他にお客さんが居ないからいいと言えばいいのだが、早よ決めろ早よ、と客からは見えないレジの裏側で足踏みをしていると、ようやく注文が決まったらしいお客さんがレジへと来た。

 悩んでた割には普通の注文だな、と余計なお世話を考えながらレジに金額を打ち込んでいき、

「お会計は?」

「クレジットカードでお願いします」

「光りましたら差し込むかタッチをお願いします」

 彼女の仕事はクレジットカードを読み込む端末を起動させるだけ。お釣りの受け渡しも無いし、お客さんが自分で会計してくれるしで楽でいい。

 厨房の方に注文を伝えに行き、レジに戻って来ると会計は終わっていたようで端末がレシートを吐き出していたので、それをお客さんへと手渡す。

「あちらでお待ちください」

 受け渡し口の方へと手で促す。お客さんは一回会釈してそちらへと向かう。

 さて、今度こそ帰るか、と。彼女は次のお客さんが入って来る前に奥へと引っ込むことにした。



「お~い、バイトちゃ~ん」

 帰る準備をしていると先輩社員に声を掛けられた。何だ? 残業か? 絶対嫌だぞ? 絶対帰るぞ? という意思表示のためリュックサックを背負ったまま先輩社員の方へと向かう。

「何ですか?」

「何かクレジットカードが置きっぱになってるけど」

「…………はい?」

 言われてレジに戻ってみると、クレジットカードを読み込む端末のタッチ部分にクレジットカードがポツンと置かれたままになっていた。どうも先ほどのお客さん、タッチして決済を完了させた後、そのクレジットカードを財布に戻し忘れたようである。

「どうします?」

 傘くらいならそのまま店側で預かっておいてもいいが、クレジットカードではそうもいくまい。先輩社員に指示を仰ぐと、先輩社員は無慈悲にも雨が降っている外を指差して、

「ダッシュ」

 言われるような気はしたが、この土砂降りの雨の中マラソンをして来いと仰られますか。労基に訴えてやろう、と彼女は思った。



 先輩社員からのパワハラでこの土砂降りの中、クレジットカードをお客さんに届けに行くことになってしまった。ダッシュ、と一言で簡単に言ってくれたが、どこに迎えと言うのだ。雨で視界が悪いこともあってか、店を出て見渡す限りではお客さんの姿は無い。

 右か、左か、真っ直ぐか。出て行ってからそれほど時間も経っていないから道さえ間違えずに走っていければ追いつけるのだろうが、間違ってしまったら追いつくのは難しいだろう。というかこの雨の中だ。タクシーで帰った可能性も否定できないのではないだろうか。そしたら会計時に財布を出すだろうから、そこで気付いて戻ってくるのではないだろうか。

 ってかもうこれ交番に届ければいいのではないだろうか。クレジットカードの契約者を調べてもらえれば一発な気がする。この雨の中、善良な一般市民が走り回って探して見つけて渡す必要性があるのだろうか。いや、無い。

 探す真似事だけしてダメでしたー、とお店に戻って来ることにしよう。それで見つけるまで探して来いと言われたら本当に労基に訴えてやろう。

 彼女は店の前で畳んだ傘を地面に立てる。何で雨の中傘を畳んでいるのか。それは完全に雨の中を走る前提でかっぱを渡されたからである。かっぱなんて久々に着たぞ。一応社員の体をある程度は気遣ってくれるようである。

 地面に立てた傘から手を放す。すると支えを失った傘は地面に倒れ込む。何を遊んでいるのか? 理由は簡単。向かう先を完全に運に委ねたのである。

「よし、こっちだ」

 スマホのタイマーを起動させる。大体30分から1時間もかければ文句も言われないだろう。

 傘の倒れた先にと彼女は進んでみることにした。



 日頃の行いが良いんだな、と。彼女は割と本気で思った。

 あんないい加減な方法で行き先を決めたのに、走ってたらそれっぽいお客さんを見つけたからだ。しかし、ここで実は一つ困ったことがある。

 彼女。そんなにお客さんの顔を覚えていない。接客の態度として如何なものかと思わなくもないだろうが、接客時あんまり相手の顔を見ていない。顔見ても分かるかどうか微妙なところである。格好も普通のサラリーマンという感じだったし。没個性なのが悪いのである。

 お店の袋を持っているから多分そうだとは思うが自信は無い。まぁ、間違ってたら謝ればいいか、と彼女は走る速度を上げて距離を詰め、

「すみませーん」

 と声を掛ける。相手が違うかも、という自信の無さが声に表れて音量が小さかったのが原因か、雨の音でかき消されたか、自分に話し掛けられているとは思っていないのか、相手は立ち止まってくれずに歩き続けている。

 彼女は一回大きく息を吸って覚悟を決めると、先ほどよりボリュームを上げて、

「すみませーん!」

 今度は届いたらしい。届き過ぎたらしい。ビクッ! と肩を動かしている。それから恐る恐る彼女の方を振り返ってくる。

 相手の顔が見えたが前述の通り、彼女は相手の顔を見ていなかったので自信が無い。こんな顔だったような? と曖昧な記憶を辿っていたが、

「あ、先ほどの」

 どうやら向こうは覚えていたようである。ラッキー。この人で確定である。

「あの、先ほどクレジットカードをお忘れになりませんでしたか?」

 持って来たクレジットカードを差し出してみるも、お客さんの反応はイマイチだ。挙句首を傾げて、

「これ僕のですか?」

 と、逆に聞いてきた。あれ? 違うのだろうか? しかしこの人以外にクレジットカードを置いていきそうな人も居ない気が、

「あ、僕のですね」

 財布を確認してクレジットカードが無いことに気付いたらしい。何だコイツ、と思わんでもなかったが、忘れていった認識が無いから忘れていったわけなので、忘れていきませんでした? と聞かれた時にきょとんとなるのは自然な反応なのかもしれない。

 クレジットカードを彼女が手渡すと、

「いやー、雨の中わざわざすみません」

 ホントですね、と言いかけたがそれを内心に含んだ業務用スマイルを浮かべるに留めた。お礼を言うだけまだマシと思っておこう。

 ではこれで、と彼女が去ろうとしたところ、届けてもらってそのままは悪いとでも思ったのかお客さんが、

「お礼に飲み物でもどうです?」

 近くにある自販機を指差してくる。おいおい、クレジットカードを届けたお礼にしては安く見られたものである。落とし物を届けたら3割貰えるものだぞ? 口座の金額の3割を寄こせ、と心の中ではブツブツ文句を言ってみたが、お礼をくれる、と言うのであれば拒む理由も無いので貰っておくことにしよう。

「コーヒーでいいですか?」

「私コーヒー飲まないので」

「え?」

 コーヒーショップに働いている人間の口から出た言葉としては衝撃の言葉なので、固まるお客さんの反応は至極当然であろう。しかし彼女は何食わぬ顔で、

「何か?」

「い、いえ……」

 忘れ物を届けて貰った立場、ということもあってか、何も言わずに引き下がるお客さん。ではお好きな飲み物をどうぞ、とお客さんは自販機にお金を入れる。

 こういう時、大抵の人は遠慮して一番安いものを頼むのかもしれないが、彼女は違う。自分が飲みたいものを飲む。というわけで、一番高い紅茶のペットボトルを買う。紅茶のボタンを押せる金額を入れたお客さんが悪いのである。

「ご馳走様で~す」

 研修で培った高い声と笑顔を出す。何か言われるか、嫌な顔の一つくらいしてくるものかと思ったが、お客さんは笑顔で『いーえ』と言ってお釣りを受け取っている。内心でどう思っているのかまでは分からないが。

 では今度こそこれで、と彼女は買ってもらったペットボトルを胸に抱えて帰ろうとしたところ、

「また行きますね」

 背後からお客さんが声を掛けてきた。彼女は振り返り、少し考えてから、

「忘れ物しないならどうぞ」

 いたずらっぽく微笑んだ。



 有言実行とは見上げたもので、後日本当にお客さんはまたお店にやってきた。

 しかし、約束は守らないタイプらしい。

 二回目の来店では未だに慣れないのか、手際悪くメニューを決めた後レジへと向かい会計を済ませるお客さん。クレジットカード忘れてないよな、と彼女もレジを確認し、忘れ物が無いことを確認した。

 後は受け渡し口で貰って帰るだけ。よし今日は無事に会計が終わった、と思っていたのだが、

「お~い、バイトちゃ~ん」

 デジャブ。何か嫌な予感がした。彼女が恐る恐る先輩の方へと向かうと、

「何か今度は財布忘れてったんだけど」

 何で? どうして? どうやって?

 察するに受け渡し口でクレジットカードをしまおうと財布を取り出し、受け取りの時に一旦受け取り口に置いた際、そのまま忘れていった、ということなのだろうか?

「………………」

 どうします? とは聞かない。聞いたら何て返ってくるのか大よその検討が付くから。そのまま聞かずに無かったことにしようと思ったのだが、世の中そんなに甘くないものらしく、先輩は外を指出すと、

「ダッシュ」

 労基へ?



 以来、あのお客さん来る度にわざとなんじゃないか、というくらい忘れ物をしていくようになった。

「お~い、バイトちゃ~ん」

「仕事中でーす」

「みんなそうでーす。今度はスマホ忘れてったよー」

「地面に叩き付ければいいんじゃないでしょうか?」

「ダッシュ」

「ええいっちくしょうめっ!」

 またある日、

「お~い、バイトちゃ~ん」

「トイレでーす」

「じゃあ終わってからでいいでーす。今度はカバン忘れてったよー」

「座布団代わりに丁度いいんじゃないでしょうか?」

「ダッシュ」

「ああんっもうっ!」

 またある日、

「お~い、バイトちゃ~ん」

「無視」

「無視を無視。今度は傘忘れてったよー」

「もう傘くらいいいんじゃないでしょうか?」

「ダッシュ」

「くそっ給料の割り増しを要求するっ!」

 もはやお店の恒例行事となりつつあった。ぶつくさ文句は言いつつも、彼女は荷物を持って店を出て、全力疾走で外を駆けていく。もう手慣れたもので、店を出たらどちらに行けばいいのか迷うことも無くなっていた。

 そんなにお客さんの歩く速度が速くないのか、日々忘れ物を届けさせられているせいで彼女の足が速くなったのか、お客さんにすぐ追いつくようになってきた。

 背中が見えたので彼女は傘を伸ばしてお客さんの襟に引っ掛けて強制停止させようとする。不意に襟を引っ張られたお客さんは『くえーっ!?』という世にも奇妙な悲鳴を上げていた。

「傘忘れましたよ」

「そ、その前に……、襟を引っ張って人の首を絞めたことに対する謝罪は無いのだろうか……?」

「その前に、忘れ物を届けてくれた人にお礼の言葉は無いのでしょうか?」

「…………ありがとうございます」

「いえいえ」

 そう言った時の彼女の顔が笑顔だったのは、きっと練習した作り笑顔の賜物なのだろう。

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