第七章 自由 3
「な!」
ルーイが辿り付いた先、その場の光景を見たルーイが最初に感じた感情は畏れだった。
神秘という名の畏れ。
ルーイの眼前に広がるのは淡く蒼白い光を発する地底湖だった。
本来、水というものはあらゆるものを吸収する性質がある。程度の差こそあれ、水に溶けない物質など存在しないのだ。それは魔法であっても例外ではない。精製に精製を重ねた水に、様々な金属、魔法を封じ込める。それによって新たな物質を造り出そうとする錬金術の方法が、発生から数千年経った今でも行われているのがいい実例だろう。
今、ルーイの目の前にある水は、数十年、数百年、と長い年月をかけて大気中の魔法元素を少しずつ少しずつ吸収してきた。それがルナの日に大気が不安定になることで漏れ出しているのだろう。
飲み込まれてしまいそうな魔法の流れ。人工的ではなく、自然に集められた魔法の源は人々が求める聖域だ。
漏れているのは僅かだ、しかし、漏れている分だけでも人間に扱える代物ではない。それよりも数百倍の魔法元素がこの水には蓄えられているのだ。
確かに地元の人間がこれを見て祀る気持ちがわかる、それほどまでに心が奪われる光景なのだ。
世界でも数箇所でしか存在しないといわれる魔力地帯。
湖の前、大きな一枚岩にレインが寝かされていた。
別段体にも異常はなさそうに思える。眠っているだけか。
「レインさん」
ルーイが駆け寄ろうとするが、既に遅かった。
「くっ静電結界!」
球状に留まる八つの物体、それがレインを、湖を取り囲むように浮いている。電気を帯びた金属の塊が、互いに作用しあい電気の壁を作っているのだ。電気で作られた不透明な可視の壁。うかつに触れては焦がされてしまうだろう。
思念を集中し、結界を構成している氣の流れを見る。
ライゼンはどこまで人間離れしているのだ。
これだけの結界が出来る人間はそうはいない。しかも、彼はその場に居合わせることなく結界を維持し続けているのだ。
長く自分も生き、様々な魔法士を見てきたがこれほどの魔法を使える人間は数えるほどもいなかったとルーイは思った。専門の結界士ですら唸らせるほどかもしれない。
だが、自分なら。
ルーイが詠唱態勢に入る。
その先に、不穏な氣の流れを感じたからだ。
何とか、手を打たなければ。
「結界を破るのは百年振りですか」
守るための結界を壊すことは容易ではない。なぜならそれは攻撃をせず、ただ守るために特化しているのだから。
守るため、そうだ、これは罠ではない。近づいてから発動する種類の魔法も存在するが、この結界は確実に可視化されている。よほどのことがない限り、見ていて特攻するものなどいない結界だ。
なぜ、そのようなことをするのだろうか、完全に排除を目的とすれば、接近発動型の術式なり魔法を仕掛ければいい。
ライゼンは、何を企んでいるのだろうか、その考えがルーイに過ぎる。だが今彼に可能なことは唯一つ、目の前のレインを救うことだけだ。
「さて、どちらが上手でしょうかね」
人外の能力者ライゼンと、永久なる蓄積を持つルーイ。
大きく息を一つ吸う。
「天をみよ、我が僕よ、取り持つ世界よ、世界は創造の枠を超えず、光により膨らみ光により収縮するに他ならない、絶対なる枠よ、漂う枠よ、我が求めるは白夜の調べ」
ルーイの周りに光の円が出来る。
円は宙に浮かび、二つの円に分かれた。
ルーイが軽く舌打ちをする。ルーイが得意とする属性は光だ。そしてここは日の差し込まない洞窟の中。物質としての光を流用するには相当分が悪い。
魔法を構成しようとするが、今一歩欲しい威力が出そうにない。
周囲の光を集め、限りなく世界に闇が訪れても、ルーイが構成出来たのは仄かな光に過ぎない。
結界を壊すのは結界を構成する氣の二倍、魔術学の基本だ。それに各属性との相関関係、氣の凝縮率、魔法士の力量が関わってくる。
光は雷と属性が近い、打ち破るには二倍では足りないのだ。
「まだ」
まだ、魔法として引き金を引くには威力が足りない。
魔法士としての年数はルーイの方が遥かに長い、意志を持つ生物の中でも格段に上だろう。
しかし、元の絶対的容量がライゼンとは違いすぎる。それは人という枠にはまらない存在。
ただ、静かに金属球は壁を作っている。
良くて無駄撃ち、悪くて跳ね返り、相殺出来る可能性すらほとんどない。
一瞬意識が遠のく、この氣を練り直すには最近のルーイには手厳しかった。更なる上を望むことを既に数百年の間怠っていたからだ。
最初の百年、ルーイはただ森の中で静かに時を過ごしていた。
獣の姿を呪うこともなく、永遠とも思われる時間を独りきりで過ごした。魔法の研究も止め、誰とも言葉を交わさず、緩やかな死を望んだ。
だが空腹は身を衰えさせず、傷は意味もなく修復された。身を粉にしても、苦痛の後どこかで自分が形成されるだけだった。避けられない死を避けてしまった。
死ぬ権利さえも失ってしまったことに気が付いたのは三十年ほどの後だった。
不思議なことに絶望はしなかった。絶望というには、彼は何も期待していなかった。求めるものも、守るものも、彼には存在しなかった。
次の百年、独りの恐怖からか幾人かの人間に出会った。
彼らは時に受け入れ、時に反発し、ルーイと接触をした。彼らと話をし、仲間と呼べる時期もあったが、彼らは例外なくルーイよりも早く死んだ。戦死、病死、ありとあらゆる死をルーイの前で繰り返した。
寂しげな別れを、苦痛の別れを、柔らかな別れを、後悔の別れを、千差万別の別れをルーイに見せる。
ルーイに彼らを助ける術はなく、目の前で息を引き取る人間を眺めることしか出来なかった。孤独という恐怖を和らげるための出会いが一層彼を孤独にした。
最後の百年、彼は再び回顧という眠りについた。
存在の無力さを知り、孤独を我がものと受け止め、永遠を身に焼き付けた。終わりなく続いていく時間、光と闇が交互に訪れるだけの世界。
そしてルーイはフィロリスと出逢った。自分が存在してから一体どれだけの時間が過ぎたのか記憶にも記録にもない。
フィロリスは、今まで会ったどの人間よりも、弱く、破天荒で、儚く、強かった。
あの時、なぜ自分がフィロリスを助けたのか未だにわからない。そうしなければいけないような気がしただけだ。
楽しくなかったといえば嘘になる。
その度に胸が傷つき、数百年前に捨てた自責の念が蘇った。何故、自分はこんなことを、喜びなど、笑顔など得てはいけないはずなのに。
「人は、いつだって守ることで強くなるのです」
急に師匠の言葉が頭に浮かぶ。
「誰かのために敵を倒すことですか?」
自分はこう返したはずだ。
我ながら容赦のない言葉のような気がする。
「いえいえ、違います、世の中に敵などいませんよ」
「……意味が分かりません」
「貴方にも、きっといつか分かるときが来ます」
今なら、少しだけわかります、師匠。
あの日の前日、あなたは私に名前を授けてくれました。
ただの称号、あの時はそう思っただけでした。
でも、お願いします。
あなたの力を少しでも。
何かを守る、それだけの力を。
「我が師、ルーイ=ヴィンセントの名を借りて命じる」
師匠。
「火、水、地、風、世界の根源は何であったか、世界を構築する源は何であったか、もはや忘れがたき事実を見よ」
二つの円の中心に小さな粒が生じる。一際光を帯びた小さな粒。
魔法の重ね掛け。
一つの詠唱が完成する前に魔法を上乗せすることは、断じて魔法士として行ってはいけない。どんな低級の魔法であっても、だ。
召喚師にはダブルマスターが存在する。
しかし魔法士には存在しない。
理由は簡単である、魔法は自分で創るもの、必要な威力が欲しければ最初から創ればいいのである。
それをすればどうなるのか。
単なる愚行に過ぎない。
脳内の暗示はより強固な魔法へと傾く。複数を同時に起動しても威力が分散されることはあっても上がることはない。それだけなら別に問題視することはない、詠唱の引き金が引くまで構成された氣はお預けを喰らうだけだ。
魔法とは存在と概念の問題。
初期段階で銘打たれたこの論題は数千年経っても変わることはない。
それは哲学の諸問題にも通じる。
概念は存在を内包し、存在は概念を外界へと体現させる。
つまり、いくら結果として多重魔法の個々の威力が弱まろうと、概念として多重魔法を完成させてしまった魔法士はその分だけ、いや、完成させてしまったという感覚は何倍にも膨れ上がり本人にフィードバックが生じる。
そんな馬鹿げたことを誰が一体行おうというのか。
「集約せよ、漂うほのかな欠片たちよ、お前の身は脆い、だがそれ故に輝き、我が身を退廃から救おう」
三つ目の重ね掛け。
円の前に薄い膜が出来る。
だが、そんなことに構ってはいられない。
ルーイの魔法の知識と氣の容量全てを使い、その多重魔法を完成させようとしている。どれだけ魔法の威力が半減しても、どれだけフィードバックが多くても、魔法が完成すればそれで十分なのだ。
これで、足りるでしょうかね。
景色が揺らぐ。
今、意識を失えばギリギリのところで形成されている魔法が解けてしまう。
「ライトヴァント」
第一魔法を発動宣言。
強力に物質化された魔法が静電結界に衝突する。
光の壁。
薄い膜が硬質の壁となり、金属球から一番遠い結界と均衡を保とうとする。
面での威力を主とする、本来壁として使用する魔法。
壁に壁を当て、向こう側への壁を薄くする。
ルーイの作り出した膜が勢い良く弾けとんだ。
「レイウィル」
第二魔法を発動宣言。
結界に潜り込んだ魔法円の中心、小さな球が更に輝きを増す。
意志の光。
結界の内部に行った球が八方向へゆっくりと分散し、金属球の傍に寄る。
緩やかに光の球が肥大化する。
同時に金属球から放電される電気が弱まる。
電気を吸収し、自らの体積に変換しているのだ。
「デミハイロウ」
最後に第三魔法を発動宣言。
魔法円が消え、それぞれ金属球の上に姿を現す。
偽天の光輪。
疲弊し、静電量も弱まっている金属球に輪が降り、小さくまとまっていく。
収縮する光の輪はあらゆる物質の硬さを超え、そのまま捻り潰す。
はずだった。
いや、それ自体は成功した。
金属球は粉々に消し飛び、結界は解除された。
その代わり、不思議な現象が起こった。
二番目の魔法、吸収の魔法が過剰反応している。
「しま……」
ルーイの口から血が漏れる。
魔力、知識は人間のままでも、体力や体の組織構造は魔法の反動に耐えられるわけではない。もとより人間ですら耐えられるはずもないのに、無理が過ぎたのだ。
だが、ここで意識を失うには早すぎる。
光は溢れ出る地底湖の魔法元素も同時に吸収し始めているのだ。
握り拳大の光球は頭蓋骨大になり、次第に青みを帯びる。
余計な元素を吸収して制御が利かない。
限界の超えた球は、破裂。
そこから全てのバランスが崩れた。
湖の上に漂っていた魔法元素が急激に減少、平衡により湖から多大な元素が放出、辛うじて保っていた均衡を乱した。
ルーイに不手際があったわけではない。あの手以外ではルーイに結界を打ち破る方法はなかったであろうし、並みの魔法士で対応できるはずもない。
もし結界を破らなくても、あの強さの結界が影響を周囲に影響を及ぼしていないわけがない。結界が存在しているだけで魔法質量が充満しているこの空間を圧迫している。いずれは均衡が破れていただろう。
音が、消えた。
全ての音、水の音も、ルーイの呼吸音も、全てが静寂に包まれた。
ルーイには身じろぎさえ出来ず、その場に立ち尽くす。
湖の水が盛り上がる。
青白く浮遊する元素が中心に集まり、水を高く押し上げた。
うねり、捻りを加えながら水がある種の生命を形成していく。
レインを宙に浮かせながら。
「そんな……」
あまりにも非現実的で、見たもののいない、されどごく最近見たものが、ルーイの前に姿を現していた。
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