第5話 クラスメート
夕食を食べていると瑛次が聞いてくる。
「そういえは、兄ちゃん、部活決めたの?」
いいぞ、ナイスアシストだ。
「うーん、弓道部に熱心に誘われているんだけど迷ってる」
「いいじゃん、いいじゃん。格好いいよ。そうだよね?」
瑛次はテーブルの反対側に座る母に会話のボールを投げる。
どんな反応だろうか。
コロッケにソースをかけながら密かに固唾を飲んだ。
「そうね」
母は瑛次の質問ということもあるからか、にべもなく否定することはしない。
瑛次は無邪気に僕に尋ねてくる。
「何を迷っているの? 嫌な人がいるとか?」
「いや。先輩はいい人たちみたいだよ。ただ、聞いたところ道具代が結構高くてさ。どうかなあって」
部活を始めるのに数万かかるという話をした。
あくまで弟の質問に答えるという体歳にして、母の顔は見ないようにする。
「いいなあ。僕も高校に入ったら弓道を始めようかな。だったら、お兄ちゃんもやっておいてくれた方が色々聞けて便利かも」
買ってきたポテトサラダを口に運んでいた母が頷いた。
「そう。それじゃあ、お父さんにも聞いてみるわね。お父さんがいいと言うなら、道具代は面倒を見てあげるわ」
父はこの辺りの費用に関しては鷹揚なはず。母に拒絶されなかっただけで上出来と言えるだろう。
どう切り出そうかと思っていた悩みが解消してほっとする。
食事を終えると借りてきた本を居間に持ってきた。
読み始めようとすると母親から頼みごとをされる。
「本を読んでいるんだったら、洗い物をしてちょうだい。私はアイロンをかけないといけないから」
母が大変なのは分かるので家事を手伝うことに文句はなかった。
ただ、瑛次との分担において、兄だからという理由で常に僕の方が負担が大きいのは少し納得がいかない。
本を読んでいるのは宿題みたいなものだと説明しようとしてやめる。
そんなことをしても僕が洗い物をするという指示が覆らないのは過去の経験から学んでいたし、それならさっさと洗った方が結果的に早く読み始められるだろう。
食器を洗って、乾燥ラックに並べた。
台布巾でキッチン周りを拭いて、テーブルも同様に綺麗にする。
最後は台布巾を干しておしまい。
ようやく、ジャン・クリストフに取りかかることができる。
読み始めて、円城寺さんが大変と言っていた理由を実感した。
一ページに詰め込まれている文字数が多い。
見開きで文字の書いていない部分がほぼ無い状況だった。
加えて、日本とは文化や習慣が異なり時代も異なる風物の描写を長々と語られても脳内に映像が結実しない。
僕は文字を読むことに抵抗がないと思っていたが、それは早計だったようだ。
一度読むのをやめて、ページ数を確認する。
五百五十ページ。一週間以内に読了するには単純計算で一日八十ページは読まなくてはならない。
時計を見ると三十分でまだ二十ページしか進んでいなかった。
これを高校生に読ませようと考えついた中村先生の顔を思い浮かべる。
課題図書を示したときは、人相を悪くしたアンパンマンのような顔の口角を上げていたが、小さな目は決して笑っていなかった。
絶対にサディストに違いない。
ふう。
ため息をつくと気分転換に何か飲むことにした。
立ち上がると宿題を広げていた瑛次が目ざとく声をかけてくる。
「僕も」
アイロンがけをしていた母もそれに唱和した。
やかんにお水を入れてコンロで沸かす。
お湯が沸くまでの間、二ページほど立ち読みをして進めた。
戸棚からほうじ茶の缶を取り出し、中に突っ込んであるプラスチックスプーンで二杯分急須に茶葉を入れる。
沸騰したお湯を注いで抽出する間に、乾燥ラックから三人の湯飲みを取り出した。
お湯を注いで湯呑を温める。
温まった湯呑から湯を捨て、順に急須からほうじ茶を入れた。
僕の分をちょっと多めにする。
まあ、それぐらいは手を動かした報酬として許されるだろう。
まず、二人の分を運んでテーブルに置いた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「悪いわね」
キッチンにとって返し、自分の湯飲みを運ぶ。
ほうじ茶をすすり、ほうっと息を吐いた。先ほどまでの眠気が飛んでいる。
そこで、先ほどの計算に穴があることに気が付いた。
一日八十ページというペースは、円城寺さんが陣取るところとは別の正規の図書室で借りた『海底二万里』の存在を忘れている。
こちらも貸出期間は一週間だった。
おそらく、僕の後には予約が入っている。だから、読み終わらなければ、次に入手できるのは相当後になってしまうだろう。
とりあえず、倍のペースで読み進んでおいた方が良さそうだ。
部屋の片隅にかかっている時計の針はもうすぐ八時を示している。これは十二時近くまでかかりそうだな。
大きく息を吐き出すとしおりを挟んでおいたページを開いた。
明渓学園は土曜日にも授業がある。
午前中の四時間だけだが、その分、僕が自由に使える時間は減るわけだった。
朝寝坊を決め込む母と瑛次を残して、眠い目をこすりながら登校する。
学校への途中の路上にポツンと桜の老木があるが、ほとんど花が散っていた。
アスファルトに散らばる薄い桃色の花びらが風に吹き寄せられて、厚く積もっている。
今日は四月も半ばだというのに季節は一か月近く戻ったかのように肌寒い日だった。
通学時間が徒歩二十分ほどだというのは恵まれている方かもしれない。
クラスメートの中にはその倍ぐらいの時間をかけて電車に乗り通学してきているのもいる。
まあ、電車は乗っていれば目的地まで連れていってくれるので読書ができるという点は羨ましい。
さすがに歩きながら読書というのは危ないし、課題図書は集中せずに読めるような軽い内容の本では無かった。
昨夜は辛うじて修正後の一日のノルマをこなして眠りについたが、予想通り、日付が変わろうという時刻までかかっている。
教室に入るが、少し時間が早かったせいか、生徒の姿はまばらだった。
施設は立派で新しく、妙にデジタル化が進んでいる。
普通教室での出欠は机のスロットに学生証を挿入することで行っていた。だから、出席簿なんてものはない。
特別教室へ移動する際の出席もこの学生証を持って入口のゲートを潜るだけだし、食堂や売店、自販機での買い物にも使えた。
そう言えば、図書室では本の貸出にも学生証を使うけど、書庫では使わないな。
パンをかじりながら本を読んでいると前の席の秋山がやってくる。
秋山は本人いわく、吹けば飛ぶような小さな会社の社長の息子らしい。
何かと振り返って俺に声をかけてくる。
「うっす」
「ああ、お早う」
「ヤバいな。朝から本読んでるのかよ」
「一週間で返却しなきゃいけないから仕方ないんだ」
「課題図書のやつか。で、どうよ?」
「こっちはまだいいね。もう一つは苦行かも」
「同時進行で読んでるのか。そりゃマジですげーな」
「そうでもしなきゃ間に合いそうにないよ。余計なお世話だけど、秋山も早めに手を付けた方がいいんじゃないかな」
秋山は身を乗り出してきて声を潜めた。
「厳しくなってきたら、そのときは外注に出すさ」
「外注って? まさかAIにでも書かせるの?」
「違うよ。人力さ。中村先生もさ、俺らがAIを使って感想文を書くのは予測しているらしいんだよな。だから、授業中にも短めの小説読ませてその場で感想文を書かせるってことだぜ。それと課題図書のものを比べてあまりに差が大きいと呼び出しなんだとさ。だから、俺は家庭教師に頼む」
「家庭教師?」
「ああ。ここ受けるときから頼んでいる人がいるんだ。中学のときに俺が書いた感想文や作文も渡して、俺っぽく仕上げてもらう」
「へえ」
僕はそれ以上の言葉が出てこなかった。
住む世界が違い過ぎる。
「感想文なんて時間ばっかりかかるし、たるいじゃん。あまり書く意味分からないし、それで十分だよ。それよりも、結城、部活どうするのか決めたんか?」
「弓道部にするつもり。道具代を出してもらえるか次第だけど。で、秋山は?」
「親父がさ、柔道やめるなら野球をしろってうるさいんだよな。我が家は文武両道とか言っちゃっててさ。クソだるいよ。自分はゴルフ場に穴ぼこ開けまくってるような運動オンチなのに。このままだと、野球部に入らされそうだ。万年ベンチ係さ。やってらんねえ」
秋山は、おえっ、と吐く真似をした。
「結城は自由に選べていいよなあ。弓道部か。女子もいるんだろ? あの袴姿、可愛いもんな。羨ましいぜ」
「いや、道具代を出してくれるかまだ分からないし」
「出してもらえるといいな。……そうだ。今日うちに来ねえか?」
「え?」
「でよ、結城を親父やお袋に紹介すっからさ。弓道部入るって話をしてくれよ。結城って真面目そうじゃん。絶対お袋は気に入ると思うんだ。友達は選べってうるせえんだけど、一緒の部活入るって言ったら、ワンチャン通るかもしれねえ」
困惑する僕に拝む格好をする。
午後は読書量を稼ごうと思ってたんだけどなあ。
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