第4話 瑛次

 帰宅途中の道すがら、母にどのように話をしようか考えていると、横からドンと僕にぶつかってくる者がいる。

「お兄ちゃん、今帰り?」

 脇を見れば僕が部活動選びに真剣になっている原因の一つが、あどけない顔で見上げていた。

 弟の瑛次が嬉しそうに笑っている。

 傍目には可愛らしいボーイッシュな女の子にまとわりつかれているように見えるかもしれない。

 瑛次は美人の母に顔立ちが良く似ている。

 その点、どちらかといえば父の遺伝子の影響を強く受けている僕と瑛次とはあまり兄弟と思われる要素が少なかった。

 この場合は兄妹かも。

 二人でいると時と場合によってはませたカップルに見えてしまう。

 それというのも、瑛次はしばしば女装をしているからだ。

 今日はまだ中性的といえる格好なので、兄弟と見える余地はある。

 女装をする原因は母にあった。

 どうも母は女の子が欲しかったのだと僕は想像している。

 瑛次が幼い頃にはワンピースやスカートなどを着させていた。

 とても似合っているを連発し、猫可愛いがりをする。

 母親が喜べば子供はそれを学習して、その意に沿った行動をしようとするものだ。

 僕自身にはあまりそんな記憶はないけれど、本の中にはそう書いてある。

 瑛次にとっては女の子の格好をするのが普通のことになってしまった。

 母も世間の目を意識するところはあったようで、最初のうちは家の中だけにとどめていたが、僕が小学校に入学した後は、日中に密かに外に連れだしていたようだ。

 そんな行動をとっていて瑛次の自己認識が影響を受けたかというと、本人はケロリとしている。

「お兄ちゃん知ってる? 女の子の格好をしていると、オマケしてくれたりしてチョーお得なんだよ」

 僕が中学二年生のときに少し離れたターミナル駅の大きな本屋さんに欲しかった新刊本を買いに行こうとすると、なぜが女の子の格好でついてきた瑛次はあっけらかんと言った。

 実際、僕の買った本に初回限定で一冊に一枚ついている書き下ろし特典ポストカードを瑛次は無料でもらっている。

 可愛いと言われなれているせいか、自信にあふれているし、とても人懐っこい。

 小学校では線が細いものの男の子として過ごしていたし、僕が口を出す話でもないかと思って何も言わないでいたら、知らないところで大変なことになっていた。

 僕と瑛次が出かけているところを誰かに見られていたらしい。

 学校で小学生の美少女と付き合っているという話が広まってしまう。

 こうなるとなかなかに対処が難しかった。

 真実の方がより話題としては面白いので、それを明かしたところで噂話の沈静化は図れない。どちらかというと事態はより深刻化する。

 無視を貫くしかなかった。

 一応、瑛次には今後はその格好だと一緒に連れていかないと宣言してみたが、母親からため息をつかれる。

「お兄ちゃんでしょ」

 いやいやいや。

 いくらなんでもそれは無理があると、珍しく強めに抗議をしたが、母は意に介さなかった。

 学校で噂になって困っている。

 仕方なくそのことを告げると母はそれで、という顔をした。

 とりあえず、女装した瑛次は親戚の子が遊びに来ていたということにする。

 別に僕がでっち上げたわけじゃない。

 母が家の近所で顔見知りにあったときに言っていたのを流用させてもらっただけだ。

 ただ、一度たてられた評判はなかなか消えてくれず、僕は中学時代は肩身の狭い思いをしながら過ごすことになる。

 そんな立場に置かれる原因となった弟に対して悪感情を抱いているかといえばそうでもない。

 僕よりも目鼻立ちの整った瑛次を羨ましくは思うけど、それを本人にぶつけるのは筋違いだ。

 瑛次が俺の腕にぶら下がるようにしながら、甘えた声を出す。

「ねえ、帰ったらゲームしようよ」

「無理。分厚い本を読まなきゃいけないんだ」

「いいじゃん、ちょっとぐらい」

「だめだよ。一巻でこんなにあるんだぞ。しかも全部で四冊ある」

 指で厚みを示した。

「うえ、よくそんなに長い話を読む気になるよね。宿題?」

「まあ、そんなもん」

「じゃあさ、三十分だけ。いいでしょ? 読書なら日曜日もあるし、ね?」

 お願いポーズが路上で炸裂する。

 僕には絶対に真似ができない態度だった。

 母だけでなく、単身赴任中の父もこれには弱い。そして、もちろんこの僕も。

「それじゃあ、風呂に入るまでだぞ」

「やったあ!」

 団地の中の一室である自宅に帰った。まず台所のシンクの桶につけてある食器を洗って、米をとぎ電子ジャーにセットする。

 その間に瑛次は洗濯ものを取り込んで畳んでいた。普段は言わないとやらないが、こういう時だけは率先して動く。

 給湯器のボタンを押して風呂のお湯張りを始めて居間に行くと、瑛次がテレビの前に陣取っていた。

 ゲーム機のコントローラーのうちの一台を手渡してくる。

 音楽が流れ画面にタイトルが表示された。いわゆる格闘ゲームというやつだ。

 瑛次がプレイヤー同士の対戦モードを選び、操作するキャラクターを選択する。

 続いて僕が愛用のキャラクターを選ぶと瑛次は困惑の声をあげた。

「今日はガチか~」

「そりゃそうさ」

 画面上でカウントダウンが始まりゼロになる。


 数戦したところで、給湯器から給湯がもうすぐ終了するという音声案内が流れた。

「じゃあ、次が最後な」

 かなり勝ち越しをしていたので最後はちょっとだけ手を抜いて瑛次に勝ちを譲る。

「あ~、くそっ、やられた。最後、勝ち逃げするつもりだったのに」

 悔しそうにコントローラーをカーペットの上にポイっと放り投げると、僕は立ち上がって脱衣所に向かった。

 いつもなら、そのまま対コンピュータモードで遊び続ける瑛次が、なぜか今日はやってきて服を脱ぎ始める。

「一緒に入ってもいいよね」

 ダメという返事なんて頭になさそうだ。

「なんだよ急に」

「だって、その方が早くお風呂が終わるじゃん。そしたら、母さんが帰ってくるまでゲームできるでしょ」

 僕が風呂場でシャワーのお湯を出し始めると、瑛次も入ってきてしまった。

「ちょっと変じゃないか?」

「この間、温泉行ったときはみんなで一緒に入ったじゃん」

「うちのは狭いだろ。カランも一つしか無いし」

「じゃあ、僕は先に浸かっちゃおう」

 シャワーで頭を洗い始めた僕を尻目に瑛次は蓋を開けて湯船に入ろうとする。

「こら、かけ湯しろ」

「はい、はーい」

 桶でざっとお湯をかけると瑛次はジャボンと体を沈めた。

 髪の毛のシャンプーを洗い流し、横を見ると縁に置いた腕にあごを乗せて瑛次が僕のことを見ている。

 僕が体を洗い始めると瑛次は目を伏せた。

「中学のときの数学の原田先生って覚えてる?」

「そりゃまあな。担任だったし」

「今年から僕の通っている中学に転勤になったんだよ。それでさあ、兄ちゃんみたいに勉強を頑張れってさ」

 唇を尖らせる。

「いいよなあ、兄ちゃんは。勉強もできるし、ゲームも上手いし。いいところだらけじゃん」

 そういう認識なのか。体にシャワーを浴びながら驚いてしまった。

「それじゃ、交代な」

 湯船に浸かりながら、髪の毛を洗う瑛次をまじまじと見る。

 学校でもてはやされているクラスのイケメンと比べても遜色ない。

 まあ、中学生だと、顔の良さはまだそれほど真価を発揮しないのか? いや、それはないな。

 ざっと体を洗った瑛次が浴室を出て行く。まさに烏の行水。

「おい、ちゃんと洗ったのか?」

「洗った、洗った。あ、母さんお帰り~」

 瑛次がいなくなったので、僕も風呂を出た。

 居間に戻るとキッチンにいる母親と話をしていた瑛次がにこやかに笑う。

「もうすぐ夕飯だって。だから、それまでいいよね?」

「瑛ちゃん、ご飯ができるまでよ」

 母のセリフはつまり、裏を返せばそれまでは相手をしてあげなさいということだ。

 まあ、いいか。

 五分や十分の時間では区切りのいいところまで本を読み進めることはできないだろうし。

「さっきの雪辱してやる。覚悟しろよ」

 僕は風呂上がりのホカホカした体でテレビの前に座った。

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