第2話 変わった人
僕は自分で言うのも変かもしれないが、どちらかというと大人しい性格だ。
弟の瑛次と比べると明らかだが、人見知りする方だし、初対面の人に強引に話しかけるようなことができるタイプではなかった。
ここまで完全に存在を黙殺されると、いつもだったら、すごすごと引き返したところだろう。
ただ、ここまで熱心に読んでいる本のタイトルが気になった。とんでもなく面白い本なのかもしれない。
まあ、単に性格が悪くて声が聞こえないふりをしているという可能性もある。
ここはそうでないと仮定しよう。
他人の声が聞こえなくなるほど人を夢中にさせる本とは何なのか。
答えを得られないと今夜は眠れなくなるかもしれない。
まあ、本当に部屋に入るのが問題なら、立ち入るなぐらいは言うだろう。
そんな自分に都合のいい解釈をして、扉を閉め、カウンターに近寄っていく。木製のタイルが少しきしんだ音を立てた。
しかし、女性はその音が耳に入らないように読書に没頭している。
カウンター周辺の上にある照明しか点灯しておらず、かなり大きめの部屋の隅の方は薄暗かった。
古い本の独特の匂いが満ちている。
「あのう」
声をかけると顔を伏せたまま僕の方に左手がばっと突き出された。
親指と小指を除いた指が三本立っている。
「今、読書中だから」
顔を見ようともせずそれだけを言った。
だから、なんだというのだろう?
立ち尽くす僕の目の前で、ペラリとページがめくられる。
すっと左手が元に戻った。
そして、またページをめくる。
速い。
僕も割と速読な方だが、全然勝負にならない速さだった。
開いている本の向かって右側にはまだかなりのページが残っているが、このペースなら三十分かからずに読み終わるだろう。
あ。さっきの指三本は三十分待て、ということなのかも。
鞄の中には先ほど、二階の図書室で借りることができたヴェルヌの『海底二万里』が入っている。
僕も近くにある椅子に腰かけ本を読んで待つことにした。
この場所ならカウンターの上の照明が届く範囲になる。
翻案されてアニメ作品にもなったことのある『海底二万里』は、古典SFの名作という知識はあったが、読むのは初めてだ。
最近出版された本に比べると活字が小さい。
祖父が昔の本が読めなくなったと嘆いていたのは、こういうことか。
カウンターに座る女性の様子を観察しながら、本を読み進める。
まだ話の導入部を呼んでいるところで、女性がぱたりと本を閉じたことに気づき、僕も本を読むのをやめた。
女性は天井を仰ぎ、目をつぶるとしばらくその恰好のままでいる。
なんとなく分かった。
読後の余韻に浸っているんだ。
僕は邪魔をしないようにそのまま待つ。
たっぷり一分ほど経過したところで、女性が目を開き首を元に戻すと大きく息を吐いた。
立ち上がって自然に視界に入るようにすると、女性はおや、という表情になる。
「なんだ、君は?」
「えーと、本を借りたくて」
「高校生なのだから、表の文字は読めるな」
「明かりが点いていたので、中に人はいるかなあ、と思って」
「すると、君は明かりが点いていれば、他人の住宅に勝手に上がり込むのか?」
「そんな。それは話が飛躍し過ぎです。ここは学校の施設なのですよね? 標準服は着てませんけど僕は生徒です」
学校指定の鞄を女性の方に向けた。
「やれやれ。仕方ない。面倒だが仕事をするか。借りたい本のタイトルは?」
「その前にちょっと聞いてもいいですか? 今読んでいたのはなんという本なのでしょうか?」
女性は気分を害した表情になる。
「なんで、それを君に言わなければならないのだ。読書履歴は重要なプライバシーだぞ。図書館でも収集してはいけないことになっている」
僕は慌てて言い訳をした。
「いえ。凄く熱心に読んでいたので、そんなに面白い本ってなんだろうなあ、と思っただけです」
女性は今まで読んでいた本の背表紙が見えないようにしてカウンターの中に仕舞う。
「いずれにせよ。極めて重要なプライバシーには変わりない。開示は拒否させてもらうよ。さて、借りたい本は?」
僕はがっかりしながらも鞄の中から先生にもらった課題図書のリストを取り出した。
「この上にバツがついている本なんですけど」
「ふーん。ちょっと待ちなさい」
女性はカウンターの上に置いてあるキーボードに指を走らせる。
三万円近い出費が発生するか否かがかかっているので、かたずを飲んで見守った。
女性はうなづくとニヤリと笑みを浮かべる。
「結城陽一くん。君はついているな。このリストにある本は全てここに揃っている。貸出しの場合は同時に一冊しか借りることはできず、貸出期間は一週間だ。それで、何を借りるかい?」
いきなり僕の名前を当てたことに驚いた。
「先生、どうして僕の名前を?」
頭の中で色々な仮説が渦巻く。
実は入試の成績が上位五位ぐらいまでに入っていて、注目されているとか? それとも何か個人的に僕に興味があったりして。
ないない。
頭の中で自分の考えを否定していると、カウンターの中の女性は眉をひそめた。
そういう表情をしても嫌な感じにはならない。
「ここでのルールよ。まず、私を先生と呼ぶのをやめなさい」
「すいません。名前が分からなくて」
生徒なら教員の名前ぐらい知っていて当然ということかな。
女性は仕方ないわね、とでもいうように小さく息を吐く。
「円城寺よ」
「円城寺先生、失礼しました」
空気がピリリとする。
円城寺先生は明らかに機嫌を損ねた顔になった。
「私はさっき言ったわよね」
僕は高速で思考を巡らせる。
「円城寺さん?」
「それでいいわ。私は教員ではないし、あなたは個人的に私に師事しているわけでもない。つまり、その呼称をする理由が全くないのだから呼ばないこと。オーケー? それじゃ、ルールその二。私に同じことを繰り返し言わせないこと」
「はい」
圧倒されながらも、どうして僕の名前を知っているのか知りたくて素直に返事をした。
「分かりました。でも、なぜ、僕の名を?」
「あなたの名前が分かった理由? 簡単なことよ。あなたのイニシャルがYYであることは鞄に入っている刺繍から一目瞭然。現在、この学園に在籍している生徒で同じイニシャルの人は六名いるわ」
円城寺さんは人の名前らしきものがずらりと表示されているモニターを手で示す。
どうも在校生一覧を呼び出していたらしい。
「なるほど」
とりあえず合いの手をいれてみた。
満足そうな顔になったので、僕の反応は正解らしい。
「課題図書リストのタイトルから一年生と判断でき、二名に絞られる。そのうちのもう一名はヤマモトヨウコなので、確率的に結城陽一と判断した」
「聞いてみるとなんてことはないですね」
円城寺さんの頬にわずかに朱色が差した。
「まだ未熟な高校生からの賛辞でも、ありがたく頂戴するよ」
「折角の気分に水を差すようですが、僕の先ほどの台詞が褒め言葉になるんですか?」
「もちろんなるさ。聞けば分かるということは材料はそろっていたのに結論を導くことができなかったということだ。それが出来た私は裏を返せば、一見バラバラな事象をつないで推論することに優れていることになる。世の優れた名探偵と同様にね」
そこまで言うと元の素っ気ない態度に戻る。
「おっと余計な話が長くなってしまった。それで、リストのどの本を借りていくんだい?」
「予約はできないのですか?」
「できない。その時にあるものを借りられるだけだ。まあ、それほど貸し出しがあるわけじゃないから、それほど気にしなくてもいいと思うよ。私は礼儀知らずは嫌いだから」
好き嫌いで貸し出すか否かを決めるのか?
それでいいのかな。
まあ、今の優先事項は本を借りることだ。
「では、『ジャン・クリストフ』の第一巻を」
「一番の大作から取りかかるか。悪くない選択だ」
さっとカウンターから出てくるとついてこいと書架の間を歩き出す。
いくつかの棚を通り過ぎると円城寺さんは突然止まった。頭よりも高い位置にある段から一冊を取り出す。
文庫だが、厚みが二センチほどあった。僕に手渡しながら、円城寺さんはニヤリと笑う。
「なかなか読むのに骨が折れるぞ。読み終わらなくても必ず一週間以内に一旦は返却すること。延滞したらは今後一年間の出禁よ。それじゃあ、良い読書を」
手を振って出て行くようにという仕草をされた。
「ありがとうございました」
礼を言って頭を下げる。
書架の角を曲がるときに振り返ると、もう本の立ち読みを始めている円城寺さんのスラリとした姿が照明によって浮き上がっていた。
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