名探偵と僕

新巻へもん

第1話 ジャン・クリストフを求めて

 人生は偶然に支配されている。

 たかだか十数年の経験しかない僕がそんなことを言ったら、若いのに厭世的だと笑われるだろうか。

 生きていれば様々な選択肢が目の前に現れる。

 コーヒーにミルクを入れるかどうかという小さなものから、何を生業ににするかという大きなものまで、人生は選択の連続だ。

 そして、選ばなかった方の選択肢がどのような結果を招来するかが明らかになることはない。

 常に一つきりの判断結果が、生まれてから死ぬまでずっと連なっているのだ。

 もちろん、その時々において、決定をした人の意思というものはあるのだろう。

 最良の結果を得られるように、悩みに悩みぬいて選択することだってあるはずだ。

 だが、そもそもそこに限られた道しかなければ、結果は大きく変わりえない。

 僕の家の割と近くにある中華料理店である青龍軒は、今どきラーメンが三百六十円で食べられる。

 いわゆる町中華のお店でグルメサイトで高得点がつく感じではないけど、普通に美味いのでときどき食べにいっていた。

 一方で、青龍軒の近くにある隠れ家ビストロと銘打った店の存在は知っていても入ろうと思ったこともない。

 つい先日、そのビストロの前を通りがかったときに、店の外に出ている宣伝用のボードにポワソン・ダブリルの文字が手書きされていた。

 僕はそれが何かを知らない。たぶん食べ物なのだろう。

 そして、これを食べるには、この隠れ家ビストロで注文する必要がある。

 少なくとも青龍軒のテーブルに置いてあるちょっとベタベタするメニュー上にポワソン・ダブリルの文字を見出すことはない。

 では、そのビストロに僕が入店するかというと、表に出ているメニューの一皿の値段は青龍軒のラーメンが五杯食べられる価格だった。つまり僕には縁がないということ。

 まあ、別にポワソン・ダブリルを食べたことがないということを、特に残念だとは思わなかった。

 無知はある意味幸せだ。知らなければ、そもそも羨望を抱くこともない。

 僕の家の経済状況はまあ中流の下の方なのだと思う。だから、金庫の中でブンブンと金が唸っている資産家の悲劇も、爪に火を灯す困窮家庭の悲哀も、僕にとっては物語の中だけの出来事だった。

 中流の下と評したが、それを実感させられたのは、僕が小学校五年生のときだ。

 当時は仲の良かった友だちが、私立中学受験に向けた模試を受けるのに一緒に行こうと誘ってくる。

 母に話をすると、無料ならいいとの返事。

 付き合いで受けた模試の結果はかなり良かった。

 御三家は厳しいが、その時点の現状でも中堅校なら狙えるぐらい。

 模試の会場だった進学塾から熱心に入塾しての受験勉強を勧められた母は、けんもほろろに断った。

「うちにはそんな余裕はないので」

 こうしてその時は、未知の世界へと続く扉は閉ざされる。

 まあ、僕もどうしても私立中学を受験したかったわけじゃない。

 例えるなら、目の前に皿に今まで見たことのないものを出されて匂いをかいでいたら、急に隠された飼い犬といったところだろう。

 惜しい気もするけど、得体が知れないからまあいいやというぐらい。

 ちなみに、僕と一緒に模試を受けた友達は、彼のお母さんの期待と圧が強すぎることが辛そうだった。

 一生懸命に勉強をしていたようだが、結果的に志望校に落ちてしまう。

 燃え尽きてしまったのか、僕と同じ公立中学に進学した後、すべてに投げやりになり、いつの間にか疎遠になってしまった。

 彼のことを考えると僕の母が変に教育熱心でなかったことはむしろ良かったのかもしれない。

 それに、僕には弟がいるし、僕だけに教育費をかけられないということは、その当時でも理解できた。

 そんな家庭環境にある僕なのだが、この春には、なんと私立の明渓学園に入学している。

 公立高校よりも授業料がお高い私立高校を僕が受験できたのは、ひとえに補助金のお陰だった。

 中学三年生のときの担任が、補助金を使えば、公立と私立の授業料の差額を出してもらえることを教えてくれる。

 それなら、ということで母はあっさりと認めてくれた。

 家から徒歩圏内なので定期代もかからなくていいわ、というのがその時の母の弁。

 なんだか明るい未来が見えた気がして勉強を頑張り合格する。

 一応は家族で喜び、お祝いに近隣地の温泉に一泊旅行に出かけた。

 その時、母は分かっていなかったのだ。

 授業料以外にかかる諸費用のことを。

 例えば、明渓学園に制服はない。ただ、有名デザイナーの手による標準服というのがあって、かなりイケている。

 着用するかどうかは自由だったが、経済的に余裕がある家の子供はほとんど着ていた。

 もちろん、僕は私服だ。

 これだけは学校指定であるイニシャルの刺繍入りのバッグを買うのにも愚痴の一つも出てしまう母が、標準服の購入を了承するわけがない。

 標準服でないことにより親の収入の低さが明らかになることや、それによる見下しを予想して、僕は入学前に密かに身構える。

 しかし、結果的には杞憂で済んだ。

 本人が決められた服を着ることを嫌がることもあるし、僕と同じような境遇でも標準服を着ている場合もある。だから標準服は判断基準になりえない。

 それでも、授業が始まってしばらくすれば、それぞれの親の経済状況は自ずと知れた。

 受験が終わってからの春休みにどこかに旅行したかどうかは、はっきりと別れたし、持っているスマホ一つを取ってみても格差がある。

 最新型の人気のモデルは一台二十万円近くした。

 そんなスマホを持っている学生が意外といる。

 何より放課後の過ごし方は財布の中身と直結していた。

 ドリンク一杯が七百円もするコーヒーショップで毎日だべるなんてことは、とてもとても僕には難しい。

 まあ、これは付き合う相手を選べばいい。

 地味に困ったのが、現代文の中村先生から出された課題図書だった。

 一年間に五十冊の本を読んで感想文を提出しなければならない。

 いわゆる古典の名作から話題のミステリーまで幅広いジャンルのタイトルがリストに並んでいた。

 僕は同年代では割と本を持っている方だと思っていたが、リストの三分の二は蔵書にない。

 これを機会に購入してもいいのだが、さすがに全部は資金が足りなかった。

「まあ、親に買ってもらえばいいや」

 クラス内ではそういう声も聞く。

 聞くともなしに聞いていると、学校関係の費用は無制限という家庭は結構あった。

 全部合わせると五万円を超える金額がぽんと出てくることに、羨望の念を抱く以前に単純に驚く。

 僕はすぐに現実に目を向けた。

 本を買えないなら、借りればいいさ。

 ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』全四巻をはじめとする数冊は図書室で調達することにする。

 しかし、目端が利くのはいるもので、学校の図書室の蔵書はすでに予約待ちが何人もいた。

 困っていると体験入部をした弓道部の先輩から耳寄りな話を聞く。

 正門から一番遠い場所にある旧校舎の一階に図書室があるのだが、地下には第二図書室のようなものがあるとのことだった。

 僕らが学んでいる新校舎の北側にあり、少しうら寂しい感じのする建物の地下に足を踏み入れる生徒は少ない。

「まあ、しょっちょう臨時閉室の張り紙がしてあるのだけどね。ダメ元で行ってみたら? それで、私から聞いたとバラしたら弓の的にするからね。あと、借りたい本が入手出来たら正式に入部をよろしく」

 そんなちゃっかりした声に送り出された。

 その翌日、僕は旧校舎に足を踏み入れる。

 石造りの重厚な建物は文化財に指定されてもおかしくはない趣きがあった。

 天井が低く、中に入るだけで圧迫感を感じる。

 間引かれた蛍光灯がぼんやりと照らしている廊下は昼間だというのに薄暗い。

 時代がかった重厚な石づくりの回り階段を使って地階に下りた。

 地下とはいっても、天井近くの窓は地表面から少し上になっているようで、意外と外光が入ってくる。

 とはいえ陰々とした雰囲気は一階と変わらない。

 廊下を進むと書庫という表札が掲げられた扉があり、その表面には『本日、臨時閉室』という手書きの張り紙が張ってあった。

 ただ、扉にはまったスリガラスがほのかに明るい。

 普段ならすごすごと引き返す僕だが、背に腹は代えられないと扉に手をかけた。

 スライドさせるときしみながらも扉が開く。

 中から光が漏れた。

 やはり誰かいるらしい。

 僕は首を突っ込んで声をかける。

「あのう。本を借りたいんですけど」

 カウンターに向かって座った女性が一心不乱に本を読んでいた。

 長い髪の毛を後ろで無造作に束ねて黒縁の眼鏡をかけた女性は、僕の声などまるで聞こえないように下を向いている。

 誰だろう?

 入学式のときに紹介はなかったはずだ。かなり独特な雰囲気をまとっている。顔の下半分をベールで覆って水晶玉を前にしているとよく似合いそうだ。

 そして、僕のことをガン無視している。

 こんな最悪の出会いが、いくつかの偶然の積み重ねによって生まれた、僕と円城寺未華子さんのファーストコンタクトだった。

 

 ***


 新巻へもんです。普段はファンタジーをメインに執筆していますが、ミステリに挑戦した初の長編をお読みいただきありがとうございます。

 ここでお願いがあります。

 読者の方からのコメントは非常に励みになり、いつでも歓迎です。

 ただ、本作についてはミステリという性格上、先読みをする内容の投稿についてはおやめください。

 ご協力よろしくお願いいたします。

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