其の七『さようなら』

 ミノルはクロエのバーに来ていた。川から上がって、二十分ほど後のことだった。バーには珍しく多くの客が来ていた。ミノルはいつも通り、カウンター席に座った。川に入っていた約十秒のせいで、携帯電話が機能しなくなっていたため、まだヒナミには何の連絡もできていなかった。


 自販機では何も買えなかったので、その分酒を呑んだ。ミノルは酒に強く、なかなか酔えないというだけで雰囲気に合わせられず焦ることもあったが、もう何杯飲んだのか、数えきれないほど飲んで、もはや前後不覚に近い状態だった。


「あれ、あれあれあれ、ミノルくんじゃん」鼻につく声がした。「お前、逃げるように帰っちゃったから心配したよ」


 ――武田だった。彼も相当に酔っているようで、恐らく同窓会で会ったのであろう、女を連れていた。


「よお。は、ははは」ミノルは不安定な視界で彼を捉えた。


「結局、酒飲んでるし。ほんとにどうしようもねえな、お前は。まあ、今更焦ってもマトモな人間のフリなんかできんさ、安心しろ、逆に」武田は笑った。


「はは、はははっ、そういえばよぉ、お前、あの子元気か。ほら、お前が高校ん時に惚れてた……」


「――お前、その話すんなっつったよな。本気で殴るぞ」一転、険しい表情になる武田。


「ははははッ、あははははははっ、いまお前、意外と可愛い顔してるぜ、それは知ってたか?」


「黙れ、マジで殴るぞ」武田の顔が真っ赤になって、プルプルと震えていた。


「それでさぁ、あの子なぁ、名前すら覚えてねえけどよ、フ〇ラが上手かったことだけは覚えてるよ、はははは――ウッ……!」


 ミノルの視界が大きく揺れた。武田がミノルの右頬を殴ったのだ。椅子から転げ落ちるミノルに、クロエが「ちょっと、騒ぎ起こさないでよ」と注意をした。


 ミノルはふらふらと、実体も意識も揺さぶられながら立ち上がった。


「……くっ、はははははっ」そしてまた、気違いのように笑い出した。


 そして次の瞬間。

 ミノルは武田の顎に、右フックを入れた。意識を抜かれたように武田が脱力し、ワンテンポ遅れて連れの女が悲鳴をあげた。構わず、ミノルは武田の胸倉を掴んで引き寄せる、すでに降参の顔をしていた武田の顔面に、一、二、三発、気持ちのいい拳をお見舞いした。



 ――なんだ、人生なんて、簡単じゃないか。

 人生なんてこんなにも簡単だ。全部、忘れたらいいんだ。全部、壊したらいいんだ。

 酔って忘れよう。殴って黙らせよう。どうせ全部クソなんだから、迎合してやる必要なんかどこにもない。

 とにかく、其の場を凌げれば、何だっていい。社会も、常識も、将来も、世間も、生き様も、死に様も、他人も、自己も、なんだって、どうだっていい。





 気づいたら、いつの間にか、知らない女を連れて歩いていた。クロエのバーで会った女かもしれない。いつの間にか雪が降り積もっていた。草木も枯れ、禿げた枝の上に、薄く雪が乗っかっている。ミノルたちは、喧騒を少し遠くに聞きながら、細い道を、ゆっくり歩いていた。


「ほんとに大丈夫?」


 女は、そう言ってミノルの方に一歩寄った。

 ほとんど抱きかかえるような姿勢でミノルに寄り添う、守られているような心地で、何故か安心した。


「だいじょうぶだよ……」


「飲みすぎだよ。お酒って、そんなにおいしい?」女が問うた。


「まずいよ」


「だったらどうして……、毎日そんな飲んでるの? 死ぬよ?」


「死ぬ気で飲んでるんだ」


 女は本気でミノルを心配しているようだった。初めて会った、赤の他人なのに。「死ぬ気で……」ミノルはもう一度言った。


 それから無言で、何分か歩いた。どこに向かっているのかはミノルには分からなかったし、わざわざ女に問うのも面倒だった。

 遠くに喧騒を聞きながら、己のペースで、何も考えずに歩く雪道は、静寂よりも静寂で、どんな平穏よりも平穏な気がした。


「ねえ、わたしのこと、忘れたりしないよね?」何分かして、女が不安そうに言った。


「ああ、きっと――、」言いかけて、ミノルは。


 背中に異物感を覚えた。自分ではない何か、固いものが自分の皮膚や筋肉を押し退けて体内に侵入した気がした。そして、じんわりと熱くなった。


「――ぁ、」小さく声を漏らして、全身が脱力した。


 隣を歩いていた女が、絶叫に近い悲鳴をあげて、走り去る。ミノルはやっと、三人目の気配に気が付いた。


「ひ、な、み……?」


「うん、そう、私よ。ミノルくんの、ヒナミ」


 ヒナミは言いながら、あおむけに倒れたミノルに跨った。手には血塗れた刃物があった。そしてそれを、ミノルの胸に振り下ろす。突き刺す。何度も、何度も。刺される度、ミノルの肉体は形を変え、血が吹き出し、意識が遠のいた。


 ミノルはなぜか、安心していた。どうせ、死ぬつもりだったんだ。


「ミノルくん? 私、私ね、ミノルくんが大好き。これまでも、今でも、これからも、ずっと、ずーっと大好き。でも、でもね、私、叱らなくちゃいけないの。だって、ミノルくんは私を裏切ったでしょ? ねぇ? ねえ‼ 裏切り者! 裏切り者! 裏切り者! 私以外と、私以外の女と死のうとするなんて、裏切りだよ、ミノルくん! どうして、ねぇどうしてなの! どうして裏切るの! 死ぬときは、私と一緒に死んでくれるって言ってくれたじゃん! 私、忘れてないもん、ミノルくんが私にくれた言葉は全部覚えてるもん! 約束してくれたのに、裏切るなんてひどいよ‼ 私のお金勝手に使っても、私の知らない女の子とこっそり遊んでても、やめてって言ったお酒飲んでても、私、ミノルくんのこと見捨てなかった。嫌いになったりなんてしなかった。ずっと好きだったんだよ、すっと愛してたから一緒にいたんだよ。ぜんぶ、ぜんぶ、ミノルくんに愛して欲しかったからだよ、ねぇ、どうして、なんで……‼」


 ヒナミは声を震わせながら絶叫した。そして、絶叫しながら何度も刃物をミノルの胸に突き刺した。ミノルは呼吸ができず、意識が遠のき、ほとんど死んでいた。


「…………」


「でも、でもね、これで一緒になれる。ミノルくんも殺して、私も死ぬの。あの世なら、面倒なしがらみも、仕事も大学も、きっとないよ。それで、あの世で愛し合おう? 一緒に死のう? そしたらきっと、きっと、きっと幸せだよ……」


 ヒナミは涙を流しながら、そう言った。


「――ひ、なみ……」ミノルは声を絞り出した。


「な、何? ミノルくん」


「あ、い、して、る」


 最後の、この世で吐き出す最後の息を使ってそう伝えた。


「……ああ、あああああ、嬉しい、嬉しいよ、うれじぃぃい」


 ヒナミは声を上げて泣き出した。


「私たち、死によって永遠に結ばれるんだね――」



 否、きっと、そうではない。

 死は二人を分かつ。

 死はいつの時代も、人々を切り裂くだけだ。結ぶことなんて、きっと、ない。

 二人は結ばれない。永遠に結ばれることはない。

 死とは、そういうものだ。永久の眠りで、永遠の別れだ。


「あいしてる、あいしてる、ミノルくん。永遠に、永久に、ずーっと、あいしてる」


 さようなら。

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ソノバシノギ 血飛沫とまと @tomato_man

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