其の二『二人の女』

 インターホンを鳴らしたが、何も応答はなかった。だが、試しにドアノブに手をかけると扉はいとも簡単に開いた。――サスペンスドラマだったら人が死んでいる展開だ。


「おーい」と声をかけながら入室する。


「……ん……」狭い部屋の奥で小さく声がした。しわくちゃになった布団の上に、部屋着の女が寝転がっていた。


「お前、危機管理能力……」


 注意しようとして、途中で面倒になってやめた。水を飲んだ直後は頭が冴えて清々しい気分だったのに、ここに着く頃にはもういつもの重い空気を背負っていた。


「んぁ、あぇ、おかえり」部屋着の女が寝ぼけ眼を擦って言った。


 女の名前は、ヒナミ。茶色がかった黒髪を肩の下まで伸ばした、料理の上手な女だ。


「おー、ただいま」てきとうに返事をしながら、ミノルは冷蔵庫を開けた。中には食材と、清涼飲料水、ただの水くらいしかなかった。「酒、お酒ないのか」ミノルは溜め息を吐く。


「ないよ。もう、家じゃ飲まないって言ってたじゃん」とヒナミ。


「うん、うん、もう、飲まない」


 もう家でも酒は飲まないし、外でも佐藤がいない場では飲まないと約束していた。しかし、佐藤も暇な人間ではなく、毎日会えるわけではない。それでは足りなかった。それでは声が消えなかった。


『我慢すんの。偉いな、本当に偉いよ、お前はいつもそうだもんなあ。本当は飲みたくて仕方がないのに、彼女のために我慢するんだもんな、偉い偉い』


「うるせえよ……」ヒナミに聞こえないように呟いた。


 冷蔵庫から水の入ったペットボトルを一本取り出して、一口飲んでから、ヒナミの隣へ寝転んだ。佐藤と飲んだのは土曜日だったから、今日は日曜日だ。ミノルにはもう予定がなかった。

 その日のほとんどを布団の上で過ごした。深く眠れるわけでも、体を活発に動かせるわけでもなく、ただ惰眠を貪った。どのくらい眠ったのかも、どのくらい目が覚めていたのかも分からない、夢と現実が混濁してしまったような状態で怠けていた。


 二十時を回る頃、ようやく覚醒して、布団から這い出た。部屋にヒナミはいない。夢現なまま、ふらふらと立ち上がると、低いテーブルの上に置手紙を見つけた。


{ミノルくん、こっちまで遊びに来た友達に誘われたので、夕食に行ってきます。何かあったらすぐに電話して。大好き。――ヒナミ}


 と、あった。ミノルは薄目でそれを読んで、何に対してでもなく、うんうんと頷く。



 もう数えきれないほどの回数になるが、またもミノルはヒナミとの約束を破った。携帯電話と財布だけ持つと、鍵も閉めずに家を出た。真冬の夜の町は冷えきっていて、薄着で外に出たことを後悔したが、戻るのも面倒だったので諦めた。吐く息が白く、無意識に肩が震えていた。『クジラ街』にあるクロエのバーまで歩いた。


「あら、今日は一人?」カウンターの席についてすぐに、クロエがミノルに問うた。彼女はミノルが何も言わずとも、ビールを注いだ。


 ミノルは力なく頷いて、何もない壁を眺めていた。それから酒を何杯も飲んだ。ミノルは立派なアルコール依存だったが、人一倍酒に強いのも事実だった。簡単には酔えず、バーを後にした。


 煙草を吸いながらとぼとぼと『クジラ街』を徘徊した。酔わずとも、酒を飲めば気分がふわついて、テンションは少しずつ上がってはいた。


 歩を一度止めて、スロットをしようと心に決めた時、ちょうど携帯電話が震えた。


「はい」


『やっほー。何だった?』慣れないノリの女の声だった。


「誰?」憂鬱な気分が酒で中和され、割と元気に応答ができた。


『ブルーだよ、あんたからかけてきたじゃん』


「あ? かけてねえよ?」本当に身に覚えがなかったが、寝惚けてかけたのかもしれない。


『ふーん、じゃあ用事ないのね?』


「まあ、ないね……あ、」


『なにー? てか体調大丈夫なの?』


「大丈夫。あれ、今度遊びに行こうぜ。飯おごるよ」


 そんなわけで、ミノルはブルーとのデートの約束を取り付けた。自分でもなぜ彼女と会おうとしたのかは分からなかった。


 その夜はスロットに行くのはやめて、マンションのヒナミの部屋へ戻って再び眠った。ヒナミはまだ帰ってなかった。次の日もほとんど何もしなかった。ソファに根が生えたように居座り、ほとんど意識もはっきりしないような気の持ちでテレビを見ていた。酒を飲みたくなったら、水を飲んだ。酒を飲むことへの罪悪感は、ある意味でミノルを救ったが、またある意味でミノルを苦しめていた。

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