ソノバシノギ
血飛沫とまと
其の一『悪人』
三時間ほど経過したところで、愚痴を言っていた一つ先輩の佐藤がついに眠った。佐藤はバーのカウンター席に突っ伏している。寝ぼけ眼を擦ってから、成瀬ミノルは四本目の煙草へと火をつけた。
「気持ちよさそうに寝てらぁ」ミノルは言って、煙を吸う。
あれだけ飲んで、あれだけ毒を吐けば、さぞ眠りもご快適だろう。愚痴の内容はたいていが女のことだった。彼は女運みたいなものがあまりよくないようだった。
「ミノルくん、どうせお金ないんでしょ」
佐藤が眠ってしまったのを見つけたバーテンダーがカウンターの向こうから言った。この店のオーナーの娘で、バーテンダーとして立つのは専らこの女だった。
名を、クロエといった。おそらく本名ではない。
「だって今日奢るって言われたもん。財布なんて持ってきてないよ」
「ふふ。ツケにしといてあげるよ」
クロエがそう言ったのに対して、ミノルは軽く両手を上げて、「わーい。佐藤先輩から取ってね」と薄っぺらく喜んだ。
放っておくわけにもいかないので、佐藤と肩を組むようにして支えて立ち上がった。佐藤はミノルより一回り体が大きい上に筋肉質なので、彼を運ぶのは他の誰かを運ぶよりも困難だった。しかし、ミノルはむしろ慣れた様子。
佐藤はミノルにとって、あらゆることについて気兼ねなく話せる数少ない……というかほとんど唯一の友人であった。上下関係を感じさせない性格と、良くも悪くも容赦と忖度のない性質がそういった関係を手伝っていた。優しくない人間は好きだ、優しくしなくていいから。ミノルとしてはそれが一番楽だった。
「……んぬぬぬ」唸りながら、ミノルは佐藤を店の外まで運んだ。
もう日付も変わる頃だというのに、繁華街は賑わっていた。このへんは特に飲食店が多い。だからというわけではないだろうが、目を細めてもしつこくネオンが瞳孔を刺した。色々な呼ばれ方をしているが、『クジラ街』という名前が最も知られている。
タクシーのよく止まる道路脇まで佐藤を運ぶと、ほとんど投げの要領で彼を乱雑に道路に寝かせ、その隣に自分も寝転がった。嘔吐物さえなければ、道路に寝転がるのも特別抵抗のある行為ではなかった。ミノルはなぜか、意味もなく大声で咆哮した。
そこからの記憶はほとんどない。ただ、店を出るときに貰っておいた酒をラッパ飲みしていたことだけは確かだ。
ミノルが目を覚ましたとき、すでにアスファルトを日光が照らしていた。冬の朝は凍えるほどだったが、それを感じぬほどに暑苦しいような、息苦しいような気持だった。寝転がった場所から少し移動していたが、歩道脇に寝転がっているのは相変わらずだった。隣に佐藤はいなかった。
「あのクソ野郎……」
すでにそこにはいない佐藤に向けて呟いた。頭の中で爆竹が何度も炸裂しているような気分だった。ひどい頭痛だ。
「あんた大丈夫?」
ふと、声をかけられた。見上げると、女がいた。逆光でそれ以上の情報は何も得られないが、女の影の輪郭をなぞるように日光が生えていて、仏のようだった。
「だれ、あんた……?」絞り出すように声を出した。
「私、ブルー。どうしたの、あんた」
「家はこの辺じゃないの?」
「いや、すぐそこだよ。それより、どうしたのよ」
「この辺に住んでんならもう見慣れただろ、俺みたいなヤツは」
「最近越してきたばかりなんだよね。それに酔いつぶれてるやつはごまんといるけど、どいつもクソガキかオッサンだよ。あんたみたいな美形は酔いつぶれたりしてない」
「そりゃどうも。それよりあんた、水持ってない?」
「今は持ってないけど、ウチ来たらあるよ」
女の家へ上がった。女の家はクジラ街から少し外れた住宅街にあった。気分も体調もすこぶる悪かったが、目を突き刺す日光とおさらばして、水を何杯か飲んだから、いくらかマシにはなっていた。
それから、ミノルは彼女に、ココアももらった。
女は青く染めたショートカットで、痩身で頬にそばかすがあり、耳に何十個もピアスをつけていた。左の肩にカラスのタトゥーが入っている。すらっとした美人だったが、近寄りがたい雰囲気の女でもあった。
「サンキュー。助かったよ」水もココアも飲んだ後にやっと言った。
「いいんだよ。困ったらお互い様さ」女はテーブルを挟んでミノルの向かいに座り、頬杖をついて言った。
「いんや、あんたが道路脇でぶっ倒れてても俺は助けねえよ?」
「あはは。そりゃいい、それでいいよ」
女は笑いを堪えながら――本当に可笑しくて仕方がないという様子だった――煙草に火をつけた。見た目からは成人しているかどうか、判断できなかった。
「あんた、名前は?」女が問う。女がすでに名乗っていたことをいまさら思い出した。
「ミノル。よろしく、ブルー」
「よろしく、ミノル」ブルーは煙草を持っていないほうの手を差し出した。
「ところでブルーって本名じゃないよね?」ミノルは握手をした。
「まあね。仕事で使ってる名前なんだよ」
「へえ。何してんの?」
そう問うたが、彼女はほんの少し首を横に振っただけだった。
「……私のこと、抱きたいなら諦めたほうがいいよ。それか金を払いな」
少しして彼女がそう言ったことで、ミノルは何となく彼女の仕事に勘付いた。
「――――」
しばらくミノルたちは無言になった。ミノルは水を飲んでは溜め息を吐き、ブルーはそれを退屈そうに眺めては煙を吸っていた。
ブルーから水をペットボトル一本と、電話番号を書いたメモを受け取って、彼女の家を後にした。
ブルーに水をもらったおかげで、いつのまにか随分調子がよくなっていた。酒を飲む前よりもむしろ清々しい気分になった。繁華街、ネオン街、盛り場、歓楽街、そう呼ばれるような汚れた通りを出る。
「あ! おーい、成瀬!」少しは明るいマトモなところへ出てすぐに声をかけられた。
「よお」と返した。城戸――大学時代の友人だった。
『ははッ、んだよ、その返事』声がした。
「元気か、おまえ」城戸はそう言ってミノルの側へ寄ると肩に肩を軽くぶつけた。彼もまた、筋肉質だった。
「元気だよ、俺にとっちゃ酒なんかより大学のほうが毒だったわけだ」
『笑顔が硬いぞ、笑顔が』
「はっははは!」城戸は嬉しそうに笑うと、ミノルの腰に手を回して体を寄せた。彼のこういうところが、ミノルは苦手だった。「じゃあ、悪いけど……。また飲みに行こうぜ」
そう言って彼は去った。すぐ近くで待っていた集団に合流した。大方サークル仲間か何かだろう。彼には友達が多い。善人だから。
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