其の三『デート』

 水曜日を通り越して、木曜日が来た。ミノルは灰色の空の下、寒さを凌ぐために厚着をして外へ出た。ちょっとした遠出だったが、平日はヒナミも暇じゃないので特にバレなかったし、怒られることもなかった。罪悪感がなかったといえば嘘である。しかし、ミノルは今回に、罪悪感以上の、それを覆す何かを感じ、また求めていた。


『本当に来ると思う? おまえ、いつから娼婦に遊ばれるような腑抜けになったんだよ?』


「まだ、待ち合わせの時間にもなってない」


 寒い大気に向けて、何度も煙を吐きながらブルーを待った。彼女は待ち合わせの時間ぴったりに到着した。


「やあ」ブルーは手を上げて挨拶をした。彼女も、暖かそうな上着を着ていた。「今日あんまり元気ない?」


「や? んなことないけど、三十分も前から待ってたからかな」


 それから二人は、取り留めもない会話を交えながら水族館を回った。誘っておきながら特に行きたいところのなかったミノルだったが、ブルーは海鮮料理が好きとのことで行先は水族館に決まった。

 しかし、海鮮が好きだから水族館へ行こう、というのも、考えてみれば訳の分からぬ話ではあった。


「イルカのチ〇コって、刺繍針みたいだな」信じてもらえなさそうだが、これはブルーの発言だ。


「ああ、確かに、チ〇コってより、凶器だな」ミノルは同調した。


「チ〇コも、ケースバイケースだけど、凶器だよ」


 ショーではなく、イルカの水槽を見ていた時の会話だ。ちょうど二匹のイルカが交尾をしていた。ミノルとブルーの会話のほとんどが、こうした低俗な会話であったことを記しておく。


 会うのは二度目、交流の少ない二人だったが、水族館にいる間の数時間、笑いなく過ごした時間はなかった。最初はミノルの元気を心配していたブルーだったが、気付けばお互い笑いっぱなしだった。

 自分以外の何者かを、世間だとか、組織だとか、そういうのを気にせず、感情を素直に表に出したのはいつぶりだろうか。


「マジで言ってんの? 後悔するよ?」


 みんなが笑ったら自分も笑い、みんなが悲しそうだったら自分も悲しみ、相手が喜んでくれたことを繰り返し、相手が嫌がったことは二度としない。人生がこんなにも簡単だと、ミノルが気付くのは、彼がすでに十五年間も苦しんだ後のことだった。――なんだ、生きるのって、簡単じゃないか。けれど、だから苦しまないわけではなかった。


「大マジだぜ。後悔すんのはブルーだよ」


 水族館を後にした二人は、解散するのを目前に、お互いにラーメンが好きであることが判明した。特に家系である。それから水族館の近くにある店を見つけ、どちらが多く食えるか、という勝負を始めた。


「な、なかなかやるね……」


「あんたこそ……正直驚いたぜ、本当に女かよ……」


 水族館に近いラーメン屋を出た時、二人はすでに満腹であったが、勝負はつかないようだった。だから、二人はその足でクジラ街まで戻ると、そこにある家系ラーメン屋を転々と食べ歩いた。


「は、ァ……しんどい……」ブルーの肩を借りながら、ネオンの照らす道を進んだ。


「後悔した?」ブルーも満腹を超えた具合だったが、余裕そうに笑っていた。そういう表情を作っていた。


「ああ……、した。……後悔したね……完敗だよ……」


 ミノルは嘔吐する寸前で、視界も揺らいで、喉をつままれたように息苦しかった。だが、どこか普段よりも健康な気がした。そういえば今日一日、酒も水も飲まず、ラーメン屋でさえココアを飲んでいたことを思い出し、ミノルは急に酒を飲みたいような気分になった。


「……最後に、酒、飲みに行こう」


「あァ? やだよ、やだね」ブルーは呆れるように笑った「また私に介護させるつもり?」


 誘いは断られたが、ブルーは最後に水のペットボトルを一本奢ってくれた。


「あんた、夢とかあるの?」ブルーがミノルに問うた。


「夢? なんだ、その虫唾の走る言葉は? 知らねえな」


 満腹、その限界を超えて詰め込んだ麺が、ミノルの意識を強く揺らしていた。酒とは違う、酔いのように思えた。


「夢、私にはあるよ。――私、イケメンと死にたいんだよね。あんた、死にたくなったら誘ってよ」


 ブルーの目は、ミノルを見ていて、見ていないようだった。その時のブルーの顔は、美しかった。そんな気がする。ココアが好きになった。

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