九夜 空は遠く

 片肘をついて夏休み明け最後の授業時間をぼんやりと過ごす。まだ長期休みボケが治っていないせいで、授業内容は右から左に流れていく。自分には関係のないことばっかりニュースになるなぁなんて思いながら、朝のお天気ニュースの一つが頭から離れないでいた。

 今日の空模様は相変わらず澄んだ青空が広がっているが、真夏の頃とは違って、青空には白さが多く溶け込んでいるように見える。遠くに白い雲がいくつか浮かんではいるけれど、秋晴れの陽射しを遮る力はなさそうだ。


 学期初日、最終時間に設けられた現代文の授業では宿題の確認と、夏休み前に行われていた評論読解の振り返りが行われている。筆者が何を言いたいのか、何をつたえようとしていたのか、何を考えていたのか。そうしたものを私は理解することができないけれど、先生はどうしても私たちにそれらを理解させたいらしい。

 学年が変わってすぐ手にした教科書の読み物は既に読破してしまったし、そもそも筆者が何を考えているのかなんてことには一つも興味がないのだ。筆者と言いながら、それはテスト考案者の意見であって、筆者の主張を借りただけの第三者の意見でしかないのだから。

 今こっそりと盗み見る外の雲の行方とか、木の揺れ具合の方がよっぽど関心が向いている。


 南方に住む祖父母のもとには、例年より多くの台風がやってきているらしい。朝食中のニュース番組を見た母が、父とそう話していたことが頭から離れない。

 参観にたたずむ小さな限界集落に暮らす祖父母とはもう数年ほど会っていないけれど、毎年誕生日や正月など、それぞれの時季に連絡を取る生活が続いている。

 いつもいつも私のことを気にかけてくれる優しい祖父母のもとに、今年も台風が来ているらしい。それもここ数年で類を見ないほどに巨大な一つが。私の記憶に残る中でたった一度きた台風は暴風雨や土砂災害を引き起こすようなものではなくて、快晴の中吹き荒れる強風だけがある、ただそれだけのものだった。


 テレビの台風報道は毎回降雨量が史上最大規模だの、土砂災害の警報が出ているだの、早めの避難を呼びかけるものばかり。同じ国で巻き起こっていることではあるけれど、あまりに現実味のない報道の数々にそこまでする必要があるのだろうかと思う事もしばしばある。

 けれど数年に一度の巨大台風が近づいているとなれば、被害を最小限にするために早めの対策が必要であるということは少なからず理解ができる、ような気がする。


「佐々木、お前の番だぞ」

「えっ、あ」


 突然の指名に、ちらと隣の席を窺う。椅子を大きく鳴らして立ち上がった私に、クラスメイトは笑いをこらえながら、教科書の一部分を指差して「いいって言われるまで音読」と小声で教えてくれた。

 あきれ顔の先生には無視を決め込んで、ゆっくりと読み進めていく。教科書の中では、どうでもいい蟻の話が展開されていく。蟻の生態と筆者が行ってきた実験棟から導き出された論証。勉強したところで、きっと数年後には記憶の片隅にも残らないだろう。


「そこまで、座っていいぞ」


 待ち望んだ解放の声に、できる限り音を立てないように着席する。クラスメイトに感謝の意を簡単に伝え、板書をノートに記載していく。

 ぼんやりした脳内はまだまだ勉強用に切り替わらず、ノートに綴られる児のどれもが私の字ではないように感じられる。いつもと違う位置ではねてしまったり、曲線がやけに鋭角だったり。

 本当は、まだ夏休みを過ごしている最中なのではないか。まだ学校が始まるには早かっただろうと考えてしまう授業はひどく長く感じ、ようやく鳴ったチャイムが軟禁生活の終わりを告げる。


 ◇


 八月下旬にもなれば、朝晩は秋らしい涼し気な風が吹く。日中は恋愛脳の虫が鳴くけれど、夜には秋の訪れを思わせる鈴虫の声が響く。お盆を過ぎてから一気に寒暖差が広がり、いやでも秋の雰囲気を感じてしまうし、長い冬への嫌気も生まれてしまう。この地の秋は短命だ。

 夕方の情報番組でも、台風情報は多くの時間を割いて伝えられた。どうやらはるか南の島に上陸したようで、その近くの島々にも暴風雨や高波に注意するよう繰り返し伝えられている。警戒情報だけではなく、一部地域には土砂災害警戒情報も出されているらしい。

 中継映像には強い雨風にあおられ、必死な形相で天候の実際や避難を勧める女性キャスターの姿がある。


「いつ見てもさぁ、危ないって言うためだけに危ないところ行かなくて良さそうじゃない?」

「まぁ、そうかもしれないけどねぇ。でもそうやって体を張ってくれる人がいるから、今が実際にどういう状況なのかが大勢に伝わるんじゃない?」

「ふーん……」


 台所で夕飯の調理をする母親を横目に見ながら、ソファの上でごろりと寝返りをうつ。揚げ油のぱちぱちという音が、ニュース情報から聞こえる雨音に紛れ込む。

 そういえば祖父母のところは今、台風による被害はないのだろうか。さすがに傍目から見たらおんぼろな日本家屋が、数年に一度の巨大台風に勝てるとは到底考えられない。

 母親は台風なんて毎年のことと気にしていない様子だけれど、さすがに心配になってしまう。


 大丈夫そうですか、台風。こちらはすごい晴れてるけど、雨風ひどいってニュースで見ました。


 祖父宛に、メールを送信する。台風情報はようやく終わり、外国の内紛とか殺人事件とか、また現実味の薄い現実の内容が報道されていく。台風とかの自然現象と違い、人間が関わって巻き起こるような事柄はどうにか回避できないのか、とも思ってしまう。けれど、そうできるなら、この世に犯罪はないんだろうな。

 そこからいくつか話題が変わる。地域猫が活躍したこと、円高が続いていること、内閣の支持率がどうのこうの。


「ちょっとあんた。寝っ転がってる暇あんだったら、ご飯の準備手伝ってよ」


 呆れ声の母親に「はぁい」と返事をする。いじっていた携帯をテーブルに置き、食卓へ向かう。今日の夕飯は栗ご飯とアジフライ、汁物に豚汁、あとは作り置きの副菜がいくつか。


「お父さん遅いらしいから、二人分でいいわよ」

「はぁい」


 それぞれの定位置に必要な食器を準備する。母親が豚汁を用意し、私は栗ご飯を茶碗に盛る。食欲をそそる夕飯の香りに、ぐぅと小さくお腹が鳴った。


「いただきます」

「いただきまーす」


 母と向かい合って座り、夕飯に箸を伸ばす。さくさくふんわりとしたアジフライ。後入れしたごま油が香るあたたかな豚汁。やさしい甘さが広がるほくほくの栗が入ったご飯。夕飯の堪能している頃にはもう、台風のことななんてすっかり忘れてしまっていた。

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