春の夢

ここに。 ①

 手紙を開くという行為に、心をすり減らす。内容に対する不安と恐怖は計り知れないもので、私信が届くたび胸が締め付けられ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。

 けれど食卓に置かれた一通の手紙は、私にその心を紐解かれようと待っていた。私の胸の内を知る由もないというのに。


 □


「今日は元気そうだね」

「そう見えるなんてお気楽でいいですね」

「歩いて登校できたんでしょ? 身体は元気じゃない?」

「ああいえばこういう人、俺好きじゃなーい」


 学期が始まると、私の小さな城を訪れる迷い子が増える。その中でも彼は一年目の夏から常連になり、すでに大人と対しているという認識すらない。けれど私一人では二つ置かれた白いパイプベッドを使い切ることはできないし、薬品棚に隠した高級菓子を食べきることもできない。彼は常連でありつつ、共犯者でもある。

 登校できるなら授業にも出たら良いのではと思うが、それができないということを私は知っている。軽口を叩いても怒られない環境で、彼は彼自身の存在価値を図っていることも。己で消化することができない感情が不調をもたらし、健やかな社会生活とやらを危うくさせていることも、私は理解している。

 体育館の方からはかすかに話し声が聞こえてくる。とぎれとぎれの音を聴きながら、新学期に始まる健康診断の仮予定を整理していく。全校生徒約四百八十人が私の客人だ。

 ここ数年で保健室へやってくる生徒は少しずつ増えている。授業中や部活中の傷病はもちろんのこと、特定の授業の教師と相性が悪いだの、病気がちで授業に遅れることが辛いが学校には来たいだの様々な理由があった。彼はそのどちらでもなく、学年の腫物として二年ほど過ごしている。

 それなりに話す存在もいるようだった。けれどどうやらその存在から学年全体に根も葉もない噂話が広がり、息ができなくなってしまったらしい。注意して声かけをしていた一年次の彼が、夏休み前の放課後、何も言わずに泣きに来た。それから、彼はここの住人になろうとしている。今となっては壊れそうな面影はないが、きっと彼の将来に中学時代の記憶はないだろう。


「今日始業式だけなんでしょ? もう終わるんじゃない?」


 彼は窓際のベッドが定位置で、制服のままベッドに潜り込んでいた。細い猫毛の髪と、少し色素の薄いアーモンドのような目。彼の足元に腰を下ろし、息を吐く。枯れ色の木々にも新たな芽ぐみが生まれ、青空の中から白月がそれを見下ろしていた。

 もぞもぞと動く彼が私を見る。またきっと夜遅くまでゲームでもしていたのだろう、瞼は重たそうだ。すうっと閉じた瞼を見終え、改めて仕事へ戻る。電気ケトルで沸かしたコーヒーの苦みが、彼に移されそうになった眠気を追い出す。


 □


 指に当たった封が何か見れば、自宅に置いてきたはずの手紙だった。家で覚悟を決めて読もうとしていた私信。無意識のうちに、一人ではない空間で読もうとしていたのか。口当たりの冷たいコーヒーを啜り、デスクに置く。

 十五の冬、私が未来に向けて出した私信が、デスクの中央で強い存在感を放つ。書いた記憶も出した記憶もない。これが中学最後の企画のようなものだったのかすら、私の記憶には残っていなかった。

 腕を組みそれと対峙するが、開けるところまでは至れずカバンへと戻す。過去の自分が何を書いているのか気にはなるが、好奇心からくる余裕の感情ではない。勝手に世間に絶望していたかもしれない少女か、この世の喜びを満天に詰め込んでいたかもしれない少女か、私は私自身を思い返すことすらできないのだ。

 だからこそ、この私信を開けることができない。本当に私が書いた確証が無いからだ。伊野美鶴から伊野美鶴に宛てられた手紙だとしても。

 味のしないコーヒーを飲み下す頃、始業式が終わった。騒がしい廊下の音にも気が付かず、彼は規則正しく寝息を立てていた。仕事はまだ残っている。はだけた布団を整えて、空を見る。円い白月はもういない。

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