ここに。 ②
結局彼が目を覚ましたのは昼を過ぎ、夕方に差し掛かろうとする頃。今日は部活もなく、生徒は彼を残して一人も校内にはいない。制服はしわだらけだが、明日からは指定ジャージの登校に変わる。それもあり、彼は全く気にしていない。
まだ日の短い春の夕暮れは、彼の頬をうっすらとオレンジに染める。
「みぃちゃん」
「どうしたの?」
「新学期なんだって」
一度起こした体をベッドに預け、彼は外をじっと見つめていた。中学三年生の春。同級生は中体連や中文連に向けて技術を磨いている最中だ。部活動に所属していない生徒は学業に専念し、塾に習い事にと忙しそうにしている。
彼もそれを理解していた。私はずるい大人だから、彼が「空っぽだ」と感じる無力さには寄り沿わない。ただの一養護教諭が生徒一人を支えるには、覚悟も力も足りないのだ。そして、今の彼に届く言葉が何もないことを、私は深く知っているから。
「もう帰りなさい。下校時間だよ」
素直に身支度を整え、彼はゆっくりと保健室から出ていく。ネックウォーマーに首をうずめて、一瞬私の奥底を見据えるような瞳を向けて、この城からいなくなった。白色蛍光灯が点滅する。
まだあたたかいベッドを整え、私も家路につく。
□
既にとっぷりと夜が空を埋め尽くし、黄みがかった月が町を照らす。大学進学を機に離れた地元に戻り、四年が経った。初めから養護教諭になろうと思っていたわけではない。看護師として働き、挫折を知って逃げた。もがいた先に今の仕事があった。
当時から自分のことを語るより、他人の語りを聞きたいという性質をもっている。他人に理解される必要がないと感じるようになったのが何時のことか、覚えてはいない。多くを語らぬ大人に憧れた事実があるかといえば、それは疑問でしかない。ただ何時からか、自分を多く語ることは悪い事だと思うようになった。
三年間の看護専門学校時代、友人たちと楽しく過ごした時間よりも、終わらない課題提出と心身を壊しそうになる実習の連続が記憶に残っている。乗り越えてきた自信はあった。基礎看護学実習から始まった多くの実習は、日々のクエストをこなす感覚で過ごしていられたから。昔はゲームが好きだったけれど、もう遊び方を忘れてしまった。
人と話しをすることが好きだった。けれど、それは初めからそうだったわけではない。むしろ人と話すことが苦手だった。どうして苦手になってしまったのかは覚えていないけれど、他人の目の黒い部分がどんどんと大きく深くなり、その目に映った自分が飲み込まれてしまうような、そんな感覚だけが残っている。
そうした底冷えする感覚を引きずったまま、私は患者と呼ばれる病に苦しむ人間を助ける立場になってしまった。助けたいと思っていたものは他にあった気がする。気がするけれど、思い出そうにも思い出すことができない。
患者を看る覚悟は無かった。痛みや苦しみだけなら良かった、まだ、人は死んでいないから。生きて帰る患者の姿は良かった。患者も家族も嬉しそうに笑って、皆「もう来たらだめですよ」なんて冗談交じりに伝える。そうした温かさが、病棟から唯一出ることができるエレベーターホールには満ちていた。
病院には希望もあるけれど、大半が絶望というものに体をずっぷりと浸けている。それは看護師も同様だった。私は外に出られていたから、友人との外食やウィンドウショッピングなんかで希望を蓄えられていた。外で蓄えた希望を絶望の中に落として、皆が少しでも前を向けるようにと手助けをする。皆の中に、たとえ私がいなくても。
□
「みぃちゃんってこの学校出身だったの?」
「伊野先生、ね。そうですよ」
「したらさー、これってやった事ある?」
二時間目の授業の半ばに登校した彼は、眠たそうな目でプリントを一枚渡してくる。業務の手を止めたくはなかったが、隣に座った彼が「何したらいいのかわかんないんだ」と話すから、仕方なくそれに目を通す。
それは五年後、もしくは十年後の自分に宛てた手紙を書くという、卒業企画だった。心当たりしかないその企画は、今も私のカバンで存在を主張している。
「担任が菊池も書くようにって言ってきたんだけど、何も書けないんだ」
未来なんて無いよ。ぽつりと言う彼の背中を撫でる。彼が求めていようがいまいが、どうしたって根底にある看護の精神というものが顔を覗かせ、私を動かす。その絶望の深さを理解してあげられないけれど、想像して考えて、わずかな機微から察する。そうした繰り返しが今、彼を撫でていた。
「これ、菊池くんが読んでいいよ」
カバンから取り出した封を開けられない手紙。
「私ね、ここの中学校を出てるけど、何も覚えてないの。それでも良ければ参考にして」
彼は手紙を受け取り、定位置のベッドに潜り込んだ。私と彼の息遣いと、乾燥した紙の音。中学時代のことは覚えていない。思い出すことができない。
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