ここに。 ③
保健室を背に右手に進むと、左側に三学年分の生徒玄関がある。その生徒玄関を越えてまっすぐ進めば、体育館がある。当時の面影を残す体育館に、あまり良い思い出はない。当時は女子バスケットボール部に所属していた。決して強くはない部活だったけれど、指導者が好きで何とか続けていた。
それでも指導者の声や言葉は出てこない。部員からの刺すような目線や、距離を取られ始めた日の切なさ、向き合えずに逃げた自分の弱さばかりが泡の様に浮かぶ。他人からの目線を気にするようになったのは、この頃からだった。
背中の真ん中まで伸ばした髪。前髪で目が隠れてしまうから、視力がまだ残っていた右目を出すように分け目を作った。少しでも目線を合わせずに済むように、似合わない眼鏡もかけて、教室で静かに過ごしていた。部活にも行かず、ある友人の家に放課後入り浸る生活を送っていた。
今も放課後にはボールが床を跳ねる音と、靴底の擦れる高い音が響いている。たまに部活動中の生徒を見に入る体育館だけれど、私は歓迎されていないのだと強く感じる。当時から苦しさで溢れたこの場所に、私は少しずつ飲まれてしまっていた。部活を辞めるその時まで、私以外の部員には希望が溢れていた事実に気が付くことはできなかった。
□
「返す」
「早かったね。今日は給食どうするの? 必要なら先生持ってくるよ」
翌々日、彼は鼻水をすすりながら、例の手紙を渡してきた。わざわざはさみを使って開けたらしい封筒を受け取り、まっすぐカバンへしまう。彼は給食を要らないと話し、私の隣に座った。
「みぃちゃん、中学時代のこと覚えてないの?」
「伊野先生、でしょ」
「いいから。覚えてないの?」
「覚えてないよ。ほとんど」
「どうして?」
「どうして……?」
考えたことのない問いに、ペンを握っていた手が止まる。
「誰かに何か言われたの?」
「……さぁ」
「いじめられてたの?」
「……どうだったかな、忘れちゃった」
「俺みたいに、中学時代辛かったの?」
まっすぐに私を見る彼と、目線が合う。
「俺も大人になったら、みぃちゃんみたいに中学のこと忘れちゃうのかな」
眉尻を下げて笑う彼に、気の利いた言葉一つ返すことはできなかった。
□
名前を呼ばれることが怖い。後に続く言葉が叱責でないにしても、指摘され、指示され、非難を浴びる。大好きな職場の前で立ち竦むこともあった。遠くに行って、消えてしまいたいと思う事は少なくなかった。夜勤を越えるたび、休みが訪れるたび、溢れ続ける絶望が人にばれないように、遠くへ向かう。
藍色に溺れて死にたい。二十代前半をその一心で過ごした。どの時季にも希望はなく、佇むだけの深い深い藍色に焦がれていた。死に直面した患者の心からの辛苦、急変し生命の危機に瀕する患者の救命、暴力として振るわれる不満の爆発。希望を与え続けすり減る私を、いったい何が救ってくれただろう。大好きな仕事を続けられる体のまま、藍色にどぷりと浸かって、沈みきってしまいたかった。
逃げるようにして辞めた職場。それを忘れるため、急ぎ養護教諭になるべく勉強をし、現在に至る。初めて教育の場面に触れ、悩みを抱えるのは何も病人だけではないのだと認識した。美味しいお茶やコーヒーをお茶菓子と楽しみ、話を聴く。そうして日常的な学校生活に戻っていく生徒を見てきた。
看ていた生徒が手を離れて巣立つ姿に、私は一体何を投影していたのだろう。どうして覚えていないのか、彼の問いが深く胸に突き刺さったまま。夕日も沈んだ春宵の中を、足取り重く歩いて進む。名も知らぬ花の香が、道端に立ち込めている。
帰り道の公園は、地域の子が遊んだらしくピンクのビニールボールが置かれていた。普段ならば通り過ぎるだけのその場所に、パンプスのまま立ち入る。私が小さい頃から変わらない場所にある公園だけれど、遊具は新たなものに変わっていた。空色で大人でも足が付かなかった雲梯は赤色を基調としたカラフルなものになり、回転式のジャングルジムがあったところには大きな砂場が造られたらしい。
彼の瞳に吸い込まれてしまいそうで、何を言うこともできなかった。人の話を聴くことが好きだ。私の話をする必要はなく、よく聴き、望んでいるだろう言葉をかけるだけで勝手に希望を抱いてくれるから。私自身の話は苦手だ。あの瞳が絶望を伴い、ひたひたと迫りくる。
清かな風が揺れる花の香を運んでくるけれど、それを楽しむ余裕はなかった。私だけがあの頃から変わることができずにいる。彼の目に、そう自覚させられた。
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