ここに。 ④
翌日彼が保健室に来ることは無かった。担任の小林先生にそれとなく尋ねれば、体調不良のため早退したらしい。朝から健康診断の準備で保健室に戻ることがなかったため、早退前に彼がここに寄っていたことを知ったのは給食の時間を過ぎてからだった。ノートの切れ端に書き置かれた言葉には、律義に菊池蒼と名前まで記されている。
『未来が見えません。』
書き直されてもいない綺麗な字だった。シャープペンで書かれた字を、そっと撫でる。彼は私の手紙を読んで、そう感じたのか。それとも、腫物になってしまった頃からそう思っていたのか。どれだけ何を思案しようとも、相手の心の一握りすら理解できないことをよく知っている。けれど抜けない職業病が顔を出し、手を伸ばして届く範囲だけどうにか助けてあげたいと感じてしまう。
自分勝手だと分かっていた。出過ぎた真似だとも分かっている。すぐにでも連絡をして、一言だけでも交わしたいと思うけれど、数回深呼吸をして椅子に座った。思春期特有の自己実現と現実社会の差に絶望する期間なのだろう。そうした時に、大人が何かをしてあげられることなどない。
はらりと床に落ちたメモ紙は、花弁が散るように見えた。彼の一幕が枯れ消えてしまったように。拾おうとかがんだ目に、先ほどとは違う文が映った。
『先生のことは、誰が助けてくれるの』
一度書き直したようでうすらぼやけた文字の上に、しっかりとした筆圧でそれは書かれている。拾おうとして手が止まりかかけるが、ぐしゃりと握り潰してゴミ箱へと捨てる。一気に体が重たくなったように感じられた。私信にはいつも、読むたびに心をすり減らされる。
結局幼い私が出した手紙と向き合うのは私自身しかおらず、淹れ直した苦みと酸味の強いコーヒーと共に封の開いた手紙を見る。くゆる湯気同様に、何も深く考えずに読んでしまえば良い。そうすればいつも頭の片隅にある、この私信のことを考えずに済むのだから。
ずず、とコーヒーを啜る。今日はずっとコーヒーを飲んでいるせいか、カフェインの作用で動悸が続いている。鼻から吸った息を、口から長く長く吐き出した。自己理解もできない人間が、他者理解なんてできるわけがないじゃない。言い聞かせるように何度も唱え、封筒に手を伸ばす。中に入っていたのは数枚のルーズリーフ。私を悩ます手紙を、当時の私は書置き感覚で書いていたのか。
□
絶望の絶頂なのだと息巻く少女の言葉は、救われようとはしていない。助けてもらえるわけがないだろうと、諦めにも似た笑みを浮かべて、私の頬を撫でていった。諦めることが自己保身になっていることをこの少女は知らないらしい。けれど、私の全てを理解していると言いたげにそっと伸ばしてくる手を、私は拒むことができなかった。
月明りが照らす夜道を進む。あえて住宅街を縫うように進む通勤路は、煮物や焼き魚といった温かな家庭を思わせる香りが漂う。放課後から二十一時頃まで過ごした友人宅から帰る時にも使っていた、街灯がほとんどない暗く不気味な道だった。長い髪を左右に揺らすジャージ姿の少女が前を進む。懐かしい黒色のハイカットスニーカーは、踵ばかりがすり減っている。
――帰り道はずっと誰かが付いて歩いて来て、ぱっと攫われるんだろうな、パパとママは心配するのかな、とか考えてます。帰って怒られるのが怖いから、いっそ攫われていなくなりたいって思ってます。
何度も後ろを確認して歩く少女と目が合った。そして、ダッと駆け出す。そうだ、この道はずっと怖かった。見えない何かがずっと背後にある気がして、住宅街の終わりに見える街灯まで走り抜けることが多かった。
攫われたいと思いながら、あなたは夜から逃げてるじゃない。悪いことをしている自覚に目を背けているだけの少女は、街灯の下でぱっと姿を消した。等間隔に置かれた街灯、誰かの帰りを待つ家々の外灯。そのあたたかな灯りが私を待っていることを、私はもう知っている。
□
桃色のビニールボールが記憶に新しい公園で、少女はブランコの脇にカバンを置いて必死に空を漕いでいた。もう百メートル進めば家に着くというのに。彼女の目線を追えば、やはり。空には大きな春月があった。月の輪郭を覆うような光の層に、当時の私は焦がれていたのだ。
少女の隣のブランコに座り、同じように空を漕ぐ。もがけばいいのに逃げ道ばかり探して、自分だけが世界全体に嫌われているような錯覚に囚われて、逃げの後ろめたさで身動きがとれなくなるなんて。ただ高く高く、いずれ月にも手が届いてしまいそうなほど高く、少女は空を漕ぐ。私も負けじと、同じように。
火照りだす体をまだひんやりと冷たい風が撫でていく。地上にいるより、風が冷たく感じられた。二メートルにも届かない飛翔。少女は漕ぐのを止め、速度が落ちたところで、大きく飛び立つ。膝を使って勢いを殺し、体操の選手よろしく、足を揃えて両手を斜め上へと上げた。
――辛いって思うのを辞めようとしたら、延長コードが首に巻き付いてました。自分の手が自分のじゃないみたいに、ぐーって締めてくる感じ。これで休めるなって思ってたのにママに呼ばれて失敗しました。それから延長コードが苦手です。未来の私もですか? ただ、その後に見たお月様が見たことないくらい大きくて、なんだか辛い心が辛くなくなったような感じがしました。ここには居場所が無いから、誰もいないところに行きたい。
見事な着地を決めた少女は春月を見つめて、一度満足そうに深呼吸をした。そうしてリュックを背負い、颯爽と駆け出していく。流れるような一連は、ある種儀式の様に感じられたが、少女の気持ちを軽くしたのだろう。私は振り子のようにただ揺られ、自然に止まったブランコから地に足を付けて離れた。
あの少女の様に足を揃えて両手を上げ、深い呼吸と共に月を見上げる。天気が良い日の夜、夜道を照らしてくれた月のことを、すっかり意識することは無くなっていた。あの日見た月よりは小さく遠くに見えるけれど、私が帰るには勿体ないほど美しくきれいな光を放っていた。
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