ここに。 ⑤

 少女と同じ家に帰る。部屋に延長コードはない。私の今は少女の未来にある。当時と違うベッドに少女は気にせず腰掛けて、ごろんと横になった。何度も部屋の扉を気にしている。


 ――名前を呼ばれると怒られるから、名前を呼ばれたくない。私はそう呼んでほしいって頼んでないのに、勝手に名前を付けて、勝手にその名前がついてるだけの私を怒ってくる。理解できない。私のことなんて見てないじゃん。パパもママも嫌い。どっかで死んじゃえば良いのに。部屋にも勝手に入ってくる。なんで? 私だけの空間ってどこにあるの。


 当時と違い部屋には扉が付けられ、この部屋は私だけの空間になった。部屋を見られるたびに要らぬ声かけをされ、心をかき乱されるような不快感に涙すら枯れた時期があった。一人暮らしを始めたのも、保健室が私の城であるのも、少女の深い傷によるものなのだろう。

 中学時代を思い出せないわけではない。思い出そうとすれば断片的な記憶が集まり、ちょっとしたフィクションや美化が混ざって記憶が生まれる。少女が感じていた理不尽だって思い出すことができる。

 少女の思いは、結局のところ普遍的な絶望だったことを私は知っていた。理不尽だ、不条理だと叫ぶ言葉を紐解いて分解したならば、それが小さな不満の種でしかないことを、人間を看てきた私は理解している。自分を守るため発せられる分厚い壁が、自分を惨めたらしめていたことも。だけどさぁ、菊池君。君、そんなの聞きたくなんかなかったでしょう。


 □


 校内はゴールデンウィークが間近に迫り、ふわりと浮足立った空気感が満ちている。日陰の雪もほとんど溶けて無くなり、良い春の時季となった。五時間目の授業が始まった数分後、彼はやってきた。ちょうど休憩でもしようかとお茶菓子を出したタイミングを、ばっちりと見られてしまった。

 後ろ手で閉められた引き戸の音。黙って私のことを見てくる彼を一瞥し、彼の分としてクッキーを用意する。それを見てようやく動き出した彼の背中を追えば、特等席のベッドに軽そうなカバンを置き、こちらに戻って来た。


「……菊池君、何にしますか」

「ブラックの気分」


 気恥ずかしいのか耳を赤くした彼が、隣に用意した丸椅子に座る。ははーん、成程。さすが中学三年生、どうやら大人に憧れる時期らしい。


「じゃあ私は久しぶりに甘いのにしようかな」


 彼にコーヒーを用意し、自分用にカフェオレを淹れる。どちらもインスタントコーヒーであるが、彼の分はカフェインレスだ。できるだけ苦みがなく飲みやすそうなものを、と思ったが、ブラックコーヒーを一口飲んだ彼のしかめ面に思わず声が出る。

 仏頂面の彼の顔がまた面白く、込み上がる笑いを止められない。身をかがめて笑う私の頭を、彼が小突く。それが余計楽しさを増長させた。ひとしきり笑いきった後、彼は面白くなさそうに唇を尖らせている。


「ばくりっこしよう。やっぱり先生苦い方が良いな」


 マグカップを交換し、コーヒーを一口。たまには苦みがなくたっていいかもしれないと思ったが、薄味のブラックコーヒーは微妙な口当たりだ。彼は好みのカフェオレに機嫌を直したようで、険しい顔はせずに数口続けて嚥下していく。


「あと、これもあげる」


 校内文書に使われる封筒を彼に渡す。私のことを作るのは、過去の私を踏まえて成長を続けた私だけ。私を助けられるのは、どうしたって私しかいないのだ。それをまだ知らない君に、ただ一つの導になればと思ってしまう。この手が届いてしまいそうなところに、君が戻ってきてくれたから。

 彼が不思議そうに受け取った手紙は、少女と出会った夜に書いたものだった。家が嫌いで、世の中の全部が敵に見えて、助けてくれるものも知ろうとしなかった世間知らずのお子様だって、こうも変わってしまうのだと教えなくてはならなかった。未来など見えるわけが無いのだよと。


「あなたのことは誰も助けてあげられないのよ」

「え……」


 やわらかな甘みが口に解ける。助けられたい自分自身をひた隠しにしたい心も、誰にも見られていないなんて思いたくない気持ちも、今の私はそうだよねぇと頷いて飲み込んでしまえるのだ。不満の種をいくつも抱えて世界を嫌った少女と、目の前の彼は同じようだった。

 今を生きて振り返って初めて、過去の私たちは未来を見ることができる。それを知らずに悩むだなんて、ねぇ。両手でマグカップを持ち、不安そうな顔で彼は私を見ていた。


「でも卒業まではここで待ってるから、いつでも悩みにおいで」


 きっと彼も私と同じで、無条件に自分らしくいられる環境に甘えたいだけ。外敵のいない小さな城を築き上げて、静かに鎮座する。そうして密かに絶望を溢れさせる彼を、私が蓄えた希望でその絶望から救えたならいい。たった一人助ける覚悟もないけれど、ここにいていいんだと、一言自信をもって伝えられる。


 □


 手紙を開くという行為に、心をすり減らす。内容に対する不安と恐怖は計り知れないもので、私信が届くたび胸が締め付けられ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。それは呼吸の仕方を知ったふりする大人になり、昔を直視したくないだけだ。


 白月は今日も青空に浮かぶ。コーヒーの湯気が上がる城の中、あの私信はゴミ箱に。今日も私はここで、彼の来訪を待つ。

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