八夜 あいぼうのぱすてる
おいらのあいぼうが死んだ。おいらがそのことを理解するまでに、途方もない時間がかかった。あいぼうが死んだ。おいらだけ生きている。短い手を伸ばしても届くことなんてない青い空と、すぐに眠気を誘ってくる太陽のぬくもりの中で。まだちょっぴり冷たい風も、こうしてまるくなっていればなんてことはない。おいらはまだ生きてて、あいぼうは死んだ。おいらの大事な大事なあいぼうだった。
あいぼうはいい奴だった。産まれた時間はおいらの方が早かったけど、目が開くのも、鳴いたのも、じょうずに歩いたのもあいぼうの方がずっと早かった。あいつ、おいらに力では負けていて、それが悔しいって何回もおいらのことを襲ってきてさ……。いっぱいかまれて、かっちゃかれて、昔はずぅっと治りかけの傷があったんだ。
もう古い傷は治っちゃって、おいらの黒と茶色の毛におおわれて見えないと思うんだけどさ。おいらはお兄ちゃんだったから、どれだけムカッと来ても、痛くても、あいぼうには絶対手加減してたんだ。あいぼうが怪我しちゃわないように、って。
でもおいらたち爪をしまうのがへたっぴで、一回だけあいぼうの目をかっちゃいたことがあった。あいぼうはわんわん鳴くし、かあちゃんには怒られるし、おいらすっごく反省したんだ。それからはどれだけイヤなことをされたって、全部受け入れて過ごすようにした。なんてったって、おいらはあいぼうのお兄ちゃんだからな。
まだやっぱり、春は寒いな。おじょうちゃんも早く帰るんだぞ。にゃんちゃんって……。おいらにはりっぱな、ごんたって名前があるんだ。次からはそうやって呼ぶんだぞ、したっけな。
◇
久しぶりだね、おじょうちゃん。あっ、また、にゃんちゃんっておいらを呼ぶ。おいらはおじょうちゃんの言葉を分かってあげてるのに、おじょうちゃんはおいらの言葉が分かんないんだもんな。ただにゃーにゃー言ってるだけじゃぁないんだぞ。ひとりぼっちのおじょうちゃんが寂しくないように、おいらのあいぼうの話をしてあげてるんだ。おいらはお兄ちゃんだったからな。
この神社はおいらが産まれた時よりもずっとずっと前からあるらしい。おいらとあいぼうは、神社の裏の茂みで産まれたんだ。ちょびっと動くだけで耳に葉っぱが当たってこちょばしかったな。暑い日だった気がするけど、おいらたちは大好きなかあちゃんにくっついておっぱいを吸って、くっついて過ごしてた。
あったかくてふわふわで、おいらもあいぼうもかあちゃんの事が大好き。でもかあちゃんはあんまりおいらたちを好きじゃなかったみたいで、置いて行かれちゃったんだ。実はおいらね、少しもかあちゃんの顔と声が思い出せない。でもね、あったかくて、ふわふわで、優しく舐めてくれるあの時間がとってもとっても好きなんだ。それだけはずっとずっと忘れられないし、いつだって思い出すことができるんだ。
あいぼうと二人っきりになってからは大変だった。おいらはあいぼうよりもどんくさくって、狩りも全然得意じゃない。あいぼうが獲ってくれたご飯を分け合ったり、空腹に耐えながら眠ることも多かった。今はもうそんなふうに困ることはないんだけど、最近、あいぼうとの時間をよく思い出すんだ。
おじょうちゃんはおいらを“にゃんちゃん”って呼ぶけどさ、おいらにもあいぼうにもいろんな名前があったんだぞ。おいらがその事に気が付いたのはつい最近のことでさ、もっと早くそれらが名前だって分かってたなら……。おいら、もっともっとあいぼうのことを呼べたんだなって思うんだ。
おいらは見ての通り黒くてちょびっと土色が混じっているんだけどさ、あいぼうは白くてもっと薄い土色が混じってて、ぱっちりした眼をしててかわいかったんだ。
“たま”
”にゃーにゃー”
“にゃんちゃん”
”ねこ”
”びじんさん”
”みーちゃん”
これ以外にもいっぱい名前があった。あいぼうはかわいくって、声が高くて、おてんばで、懐っこくて、いろんな人間に愛されてた。おいらの自慢のあいぼうさ。おいらはあいぼうのことが大好きなんだ。
昼間はあいぼうと一緒に重なって寝て、夜に紛れる。また明るくなる頃に一緒に寝て、その日あいぼうは起きなかった。おいらが何を言っても、顔を舐めても、全然起きなかった。あいぼうが寝坊するなんて今までなかったから、おいら不思議でさ。でもいいところを見せるチャンスだと思って、おいら、あいぼうを置いて狩りに行ったんだ。
おいらがなんとか雀を捕まえて帰っても、あいぼうは寝たまんまだった。日向ぼっこをしている時みたいに両手を伸ばして、かわいい顔で眠ってた。おいらだけがご飯を食べるのは気が引けたから、あいぼうが起きるのを待った。
あいぼうは起きないけど、おいらはご飯のために狩りに出る。あいぼうは起きない。おいらは狩りに行く。その内おいらもあいぼうも痩せこけて、食べてなかった鳥とか蛇とかからいっぱい虫が湧いてきた。あっつい日だったから、いやなにおいが立ち込めてきてて、おいらはあいぼうと違うところに行こうと思ったんだけど、あいぼうは眠ったままだから動けなかったんだ。
あいぼうがちょっとずつちょっとずつ痩せてく。おいらも空腹でぎりぎりで、身体を少し動かすこともしんどかった。でもあいぼうに虫が付くのが許せなくて、ずっとあいぼうを守ってた。おいら、あいぼうが大好きなんだ。おいらのたった一人の家族で、おいらのだいじなあいぼうなんだ。
だから、人間があいぼうを連れて行こうとしたとき、おいら初めて人間を傷つけた。何回も噛んだ。爪も立てた。おいらのあいぼうを連れて行くなって、何回も何回も戦ったんだ。おいらはへろへろだったからすぐ負けちゃったんだけどね。人間に捕まりながら、おいら、連れて行かれるあいぼうを見てた。
ずっと地面にくっついてたあいぼうの右側は、白くてうすい土色だった面影なんてなかった。あいぼうのこと、虫からも、人間からも守れなかった。おいらはだめなお兄ちゃんなんだ。
おいら、もう今日は帰らないと。まだ夕方の鐘も鳴ってないのにって顔してるけどさ、おじょうちゃんも早く帰んなよ。暑い時期も終わってさ、もう秋が近いんだから。あっという間に暗くなって、神社から一人じゃ帰れなくなっちゃうぞ。おいらはあいぼうのお兄ちゃんだから、おじょうちゃんとは一緒に歩いてあげられないんだ。
◇
すっかり秋だね、おじょうちゃん。そろそろもう、おいらは歩くのがしんどくなってきた。おいらの家は神社の裏山を下った最初の交差点を右に曲がって、角の犬っころを茶化して、あいぼうに似た白い猫の前を横切った先にあるんだ。
おいらがちょっとずつご飯を食べなくなったことを心配して、病院に連れて行ってくれたり、あったかくておおきな手で撫でてくれたりする、優しい人間と一緒に住んでる。おいらはとってもしあわせなんだけど、あいぼうのことをたっくさん思い出すんだ。
おいらが人間の言葉を理解できるようになったのはつい最近のことで、人間たちがおいらを“ごんた”って呼ぶから、おいらは“ごんた”なんだなって分かったんだ。それから、人間たちが話していることをよく聴いて、見て、少しずつ言葉の意味が分かるようになった。おじいちゃん猫で、動くのもしんどいなぁって思うけど、まだおいらにもできることがあって嬉しいんだ。
おじょうちゃんみたいな小さな人間がおいらの家にもいるんだけど、そいつがやたらと同じような色の服とかを集めてる。今おじょうちゃんが着てるみたいな、青空をもっともっと薄くしたような、その色。おいらも勉強したのさ。それ、ぱすてるからあって言うんだろ。おいら、それが分かった時に、これだって思ったんだ。
おいらのあいぼうは、白くてうすい土色で、かわいかった。だからおいら、あいぼうをぱすてるって呼ぶことにしたんだ。ぱすてるからあだと長すぎるから、ぱすてる。いい名前だと思うんだ、おいらがあいぼうを呼ぶための、とっておきの名前。
おじょうちゃんもそう思うだろ? やせたねぇって……。人間はいつまでたってもおいらたちの言葉は理解できないんだなぁ。おいらは今日神社に泊まるから、おじょうちゃんは早めに帰るんだぞ。あっという間に暗くなっちゃうからな。
◇
また今日も来たのか、おじょうちゃんったら。寒いせいで動くのが億劫だよ。お腹も空かないし、眠たくて眠たくてしょうがない。……おじょうちゃんが持ってるそれ。ははぁん、おいらの家の人間がおいらのことを探してるんだな。もう帰らないよって、つい三日前に言ったばっかりなのに。やっぱり人間たちは、おいらの言葉を理解できないままだったなぁ。
今の家にずっといても良かったんだ。だけどさ、おいらはやっぱりあいぼうがいないとイヤなんだ。あいぼうのことを、ぱすてるっていっぱい呼びたいんだ。お兄ちゃんがあいぼうに名前をつけたんだぞ、って言わないと。
わっ。おっと……おじょうちゃんの膝はあったかいね……。ここ最近、ずっと冷たい土の上だったから、あったかいのは久しぶり。あいぼうのぱすてるを思い出すなぁ。あいぼうもとってもあたたかくて、おいらとあいぼうがくっついていれば、寒さなんてへっちゃらだったんだ。
会いたいな、ぱすてるに。おじょうちゃんの膝に寝てると、ぱすてるのことばっかり思い出しちゃうよ。おいらも年取ったなぁ。また今度、あいぼうの話を聴きにおいでよ。雪が強くなる前に帰んなよ。おじょうちゃんのことは、おいらの新しいあいぼうだったって、ぱすてるに紹介しておくからさ。したらね、さよならだおじょうちゃん。
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