七夜 朝露

 部屋には私の息遣いだけがひっそりと響く。ソファと文庫本が一冊、コンビニで購入した温かい紅茶がある広い室内は、その息遣いすら大きな音に感じられる。やわらかな座面に体が沈み、一息ついた。

 まだ出産後の名残をもつ、膨らんだ下腹部が目に入る。小さな米袋ほどある命が入っていた実感は失われつつあるが、未だじくりと痛む正中創が事実だと告げていた。当時の小さな傷をこそりと隠した大きな切創。どこか愛おしく、それでいて寂しいものだった。

 外を走る自動車の走行音やクラクションが、静かな室内に漏れてくる。たった一分が長く感じるほどに暇を持て余したまま、ソファに身を預けて目を閉じた。手にもった紅茶のぬくもりが、指先と手掌を通り、ゆっくりと全体にとろけてくる。耳の奥に愛しい我が子の泣き声が遠く響いているような錯覚があった。


 □


 目が覚めると日はすっかりと昇り切り、室内を暖かく照らしている。紅茶は役目を果たしたと言いたげで、その灯火は消えてしまいそうだ。今は一体何時だろう。時計やスマートフォンなどの時間が分かるものを何一つ持ち歩いていないから、外から指す日の光を頼りに想像するしかない。

 紅茶の甘さが口いっぱいに広がる。まだぼんやりとする眼の奥、夫と子は無事に過ごすことができているかと、心配が湧く。夫からの提案で時間が分かるものを持ち歩かずに過ごしているが、正解だったかもしれない。すぐにでも今大丈夫なのか、何か不安やトラブルがないか、何か買う物がないかをひとしきり確認した後、足早に帰宅していただろうから。

 夫の対応に不満はなかった。けれど、言葉通り命をかけて産み落とした我が子のことを思うのは必然だ。一人の時間を捻出した今ですら、二人がどのように過ごしているのかを気にして過ごしている。身を捩ればじくりと痛む下腹部。鎮痛剤を飲んだ方が良いのではないかと思うけれど、それすら自宅に置いてきてしまった。


 結婚を機に解約する予定だったワンルームのアパートは、南側に大きな窓がある。窓からの眺望を楽しむための三人掛けのソファ、小さなサイドテーブル。青空と鱗雲が視界いっぱいに広がっていた。隣室のテレビ音声はぼやけていながらもしっかり届き、ただ一人いるだけの部屋を楽しませる。

 何も考えたくない時、何もしたいと思うことができない時、無性に叫び出して逃げ出したくなってしまう。その瞬間の私を守るために、全てを投げ出してしまいたくなる。つもりつもった不安と焦燥は誰にも悟られないように、だけれどそっと私自身を守るために逃げてしまった。自宅に二人と義父母を置いて。


 流されていく雲を見つめ、冷めた紅茶を数口嚥下し、ぱらりと捲った本を閉じる。

 まどろみがまだ奥底にいた。睡眠時間は明らかに減った。まとまった睡眠をとることができないというのは、睡眠時間が短くなったこと以上に辛い。長い瞬きはすっぽりと時間を奪っていってしまう。

 身体を休ませ、また育児へと戻る。そのための睡眠。意識がすとんと落ちることを睡眠と呼ぶのなら、私は睡眠をとることができているのだろう。だけれど、この。外を見るだけで溢れる涙の理由が見つからない。私は何から逃げようとしているのか、どうして逃げ出したいのか、もうすっかり分かってあげられなくなってしまった。

 止められないと自覚したのは、鼻腔粘膜に涙が落ちたことを理解したせいだったのかもしれない。泣くつもりなど一つもなかった。――泣くなんて思いもしなかった。溢れ出る涙は止まらず、嗚咽が続く。涙を止めようと力を入れた腹が痛む。腹が立つし、悔しいし、どうしてと叫びたい。


 恋仲の存在が生まれ、結婚し、子を成す。女は家庭に重きを置き、献身的にパートナーを支える。今の時代では古臭いと一蹴されてしまう考えも、要所には残っているものだ。男を立てて過ごす期間の中で、自立を諦めていく。共働きの概念が存在するのは、夫の収入だけでは生活が困窮してしまうからだ。

 快く迎え入れてくれた義実家のことは嫌いではない。けれど、そうしたステレオタイプの考えが根底に見え隠れしている。夫はそうではないけれど、幼少期に育った環境は性格や思考に強い影響を与えることも多い。

 ただ不安だ、キャリアを失い夫の庇護下に収まってしまうことが。今まで築いてきたものをするりと手放すことができないくらいに、私自身が私のこれまでから自立することができない。

 手を伸ばせば取得できそうな資格があった。抱えていた仕事が終わる目途も立ち、新たなプロジェクトに取り掛かる寸前だった。後進育成のために必要な準備をしていたところだった。責任の重たい仕事も任されていたところだった。――この先、まだまだできたであろうこともやりたいことも溢れていた。


 涙が乾き、流れた筋に沿って肌が突っ張る。ずび、と鼻が鳴る。通りの悪い鼻腔のせいで、口呼吸せざるを得ない。ほうけた頭で窓の外を見る。何も考えられない。何かを考えないといけないように思うけれど、何も考えたくなかった。

 空を透かす白く薄い雲が、右から左へ流れていく。昔は自由でいいなぁと思っていたけれど、働いてからはあの雲すら風の意のままなんだなぁと思う。歯車のようだけれど、今となっては歯車であることが羨ましい。私はたった一人で道を踏み外してしまったような感覚だ。

 外は薄くオレンジが差し込み始めた。短い夕暮れがやってくる。帰宅を促す放送もそろそろきこえてくるかもしれない。放課後を楽しむ児童に混じって、私も帰路を急がないといけないのかも。それくらいの優しい不自由さが、私には足りない。

 紅茶が残っているうちは帰宅するつもりがないけれど、いつまでも飲み干すことができないまま夜を望んでしまいそうだ。星の輝きを観ることは難しい、退屈で人工的な夜。もうすっかり見慣れた夜の光景すら、明日からはこがれるほどに求めてしまうのかもしれない。あの中に戻りたいと強く願ってしまうのかも。


 ――仁さん。

 掠れた声が、たしかにそう発せられる。彼と過ごした数年の夜。人工的な夜を見下ろすことができた数年、私はか細く光る星々を見上げていた。都会でもこんなにきれいに星を見ることができるのかと、感動したことを覚えている。

 仁さんとの日々を全て覚えているわけではなかった。思い出したくもない日々も少なからずある。


「しあわせだったなぁ」


 そう素直に言葉が出てしまうほど、幸福が満ちた数年だった。当時よりも鍛えられた体躯、相変わらず光らない薬指、ブラウンのスーツが良く似合っていた。妊娠を告げた時の彼はひどく驚いた様子だった。まさか、と言いたそうに見開かれた目に、幼い私はまだじくじくと熟れる傷を抱えている。

 もしかして今の彼は、まだ私を想ってくれていたのではないか。わずかでもそう考えてしまった私自身に嫌悪を抱く。あの瞬間、私には子を宿している自覚がなかった。まだ一人の女として過ごしていたかったという実感が、深く醜い傷となっている。もう彼に選ばれることなんてないのに。


 帰ったら何をしよう。義父母のための菓子折りと、夫を労うために彼の好きなケーキでも買って帰ろうか。粉ミルクもおむつもまだまだある。今日の分の洗濯を回して、おかずの作り置きもしないと。夫には日中ずっと頑張ってもらっていたから、夜はしっかりと寝てもらわないといけない。

 日常が少しずつ迫ってくる。私のこの気持ちを無視して、時間は平等に進んでいく。飲み干したくない紅茶が、たった一口分だけ残っていた。飲まないようにどうにか引き延ばしていたけれど、自宅のことを考え出すと、帰らなければという焦燥感に駆られる。今の私に許される仕事は自宅にしかない。だからこそ、帰り、私自身の居場所を守らなくては。

 冷たさが線を引くように落ち、心窩部で止まる。じわりとその冷たさがほどけ、体温と混じる。私の身体は、すぐに紅茶の冷たさを忘れていった。私が社会の歯車として過ごしていた事実も、ゆっくりとほどけて消えて行ってしまうのだろう。そこに私はいたのに、過ぎていく時間のさなかに私はいない。少しずつ薄れて、いなくなる。

 子を守る生活が日常となって、私の生涯を形成していくのだ。私の傷を一緒に泣いてくれた夫とともに。


 受け容れたのは私でしょう。

 そうね、私自身よね。


 広げた荷物をカバンに片付け、生産性のない自問を繰り返す。答えなんて分かりきっているけれど、それでも私はきっと当時の私が好きだった。息が詰まる夜をたくさん覚えている。痛みと苦しさと、遣る瀬無さとが溢れ出した夜を覚えている。

 ああ、でも、帰ろう、家に。私はもう、あの夜に縋って過ごすことなんてできないのだから。

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