六夜 夜霧

 彼女はいつも甘い香りをまとっていた。それが彼女の長い黒髪から香るのか、内側から発せられるものなのかは結局わからずじまいだった。記憶に残る彼女の姿はどれもが地べたに座り、幼子のように無垢な瞳を私に向ける。指示を与えたならそれを遂行し、褒美をねだる。それほどに従順な乙女だった。


 □


 美しい女だと感じた。シルバーのハイヒールを履きこなし、まっすぐに会場を歩く後ろ姿に目を奪われるのは必然だった。背中が大胆に開いた紺色のドレスからは華奢な肩甲骨の境界と、僧帽筋や脊柱起立筋への努力が伺える。

 歩く度高さの変わる臀部と波打ち揺れる黒髪とに、目を離すことができない。時折会釈をして進んでいく彼女の行き先は、複数の男女に囲まれた青年の許。青年はたいそう幸福そうに笑った。そこにあるのが自然というように、青年の手は彼女の華奢な腰に添えられる。

 振り返り微笑む彼女は、たしかに数年前心から愛した女性だった。あの甘い香りは私が与えた香りではなかっただろうか。へたな化粧と似合いもしない服を着ていた幼い子が、よくもここまで。後ろを着いて歩いてくるような従順さがあった子が、か。手元のグラスに注がれたアルコールを、くいと飲み下す。


 忙しなく動き回るボーイから新たなグラスを受け取り、ゆっくりと会場の隅へと向かう。立食形式で食事が用意された会場には小グループがいくつもでき、それぞれが会話を楽しんでいる様子だ。一人で食事や酒を楽しんでいる者もいるが、視線は大勢の中の誰かに向けられている。彼女を遠巻きに観る私のように。

 数人の知り合いとの雑談や、露出の少ない上役との名刺交換も早々に落ち着いてしまった。そもそも今日この場に来ようとしたのは、青年実業家のためではなく、その彼の伴侶になった彼女に会うためだった。

 美容院で整えた髪や、クリーニングから届いたばかりで皺のないスーツであったりとか。別れて数年以上経っている仲だけれど、こうして彼女を考えてしまうのは私自身に永遠を契る指輪がないことも原因だろう。


 隙のない洗練された姿は、当時から彼女が努力し続けていた証か。仲睦まじそうな様子を見せる二人が眩しく、ふいと視線をずらす。二人の門出を祝福するために来たことにしたならば、彼女と話すことも叶うだろうが。二杯目をあおり、会場を出てフロントのトイレへと向かう。

 身なりの整った数人とエレベーターですれ違いつつ、自然と襟元を正す。出もしない小水をなんとか出し、手を洗う。鏡に映る自分と目を合わせ、襟やジャケットに汚れがないか、胸ポケットのハンカチの表情を整えた。これでようやく、彼女と一言交わすことができるだろう。

 今の私であったなら、あの日の彼女を愛し続けてやれただろうから。ネクタイを締め直し、来た道をゆっくりと戻る。雪道を踏みしめるように、丁寧な所作を心がけた。


 会場は変わらず賑わいを忘れない。彼女の姿はすぐに見つけることができた。会場の隅で疲れた素振りも見せず、一心に青年を見つめる彼女を。踏み出す足が枷を繋がれたように重たく感じる。こんなにも、私は。

 身なりは整えた。小さく、仁さんだと私を呼ぶ浮ついた声がきこえる。そう、私は仁計良だ。たった一人の女に何を左右されることもない。この緊張感は獲物を前にした肉食獣が如き武者震いのようなもの。手が触れる距離の彼女はひどく驚き目を見開いたが、すぐに余所行きの女としての表情を浮かべた。


「やあ、こんばんは」

「こんばんは。仁さんもいらしてくださったんですね」

「君たちの門出を祝おうと思ってね」


 それは、と彼女が顎を引く。


「楽しめてますか? こぢんまりとした会ですけれど」


 彼女が差し出したグラスを受け取り、口を付ける。その様をじっと見てきた彼女の目を、見つめ返す。彼女はわずかに下げた目線を、次にまた下げる。ブラウンの細かなアイシャドウが良く見えた。あの頃はたった一色で彩ることしかできていなかった彼女が、ここまで。

 感慨にも似た何かがぷくりと湧く。当たり障りのない会話を続ける中で感じる、彼女との大きな溝。簡単に跨ぐことができると思っていたが、その思いは早くも砕かれた。人妻となったが故の身の振る舞いか、それとも。思考を整理するために煙を吸いたくなる衝動を、アルコールを飲むことで紛らわせる。

 周囲の喧騒が遠い。自然と声が大きくなってしまう合図でもあった。震える喉から発せられる言葉すら小さく聞き取りにくいが、努めて口調も声量も変えずに彼女との会話を続ける。

 青年の話を振ればそれは嬉しそうに笑う彼女に、小さないたずらごころが生まれたといえばそれだけだった。家庭に入り、半永久的な安寧を得た彼女をたった少し傷つけたいと思っただけ。いや、傷つける意図はなかった。あれほどの年月を過ごしたはずの私が、彼女の中にいない。そう感じてしまった時には、既に遅かった。


「子どもの予定は? 君達の子だ、たいそう可愛い子が生まれるんだろうね」


 ここがパーティの会場でなければ、そして彼女の夫が主役でなければ、彼女はきっと大きな声を上げて私を非難しただろう。眉尻を下げて私を見上げる彼女の表情。そうだ、私はずっとこの彼女を見ていたかった。見捨てないでと続けて言った、当時の彼女が思い出される。

 口元が緩んでしまうのを見せないように、口を引き結んだ彼女を見ながらグラスを空けた。彼女はそれでも理性があるようで、長く深く息を吐く。


「まだ、あの頃の私を見ているんですか?」

「あの頃? 私は今の君しか見ていないさ」


 小さなカバンを持つ手に力が入っているように見えた。そうして左手で右の上腕をさする。言葉を探そうとする彼女の癖だった。


「そんなに難しい顔をしてはいけないんじゃないか? 今日は君も主役だろう」


 ひかれたアイラインは彼女の可愛い瞳を切れ長に見せる。彼女が睨もうとしたかどうかは分からないが、向けられたことのない瞳にひどく心が揺さぶられた。私の知らない彼女が、今目の前にいる。

 彼女の香りが、遠い。


「子どもができるとは思えないけれどね」


 □


 大学卒業を間近に控えた彼女は、ひどく私に従順だった。回れと言えば回り、黙れと言えば黙る。死ねと伝えたならば、多少の逡巡もなく命を絶つほどに危うく、幼く、愛しい存在だった。気まぐれに参加した合コンで出会った彼女に自信なんてものはなく、友人の話題に不器用に笑っていた。

 その姿が面白かった。それが始まりだった。男を知らない女は臆病だけれど、確かに強く『私は女である』という欲求を蓄える。今まで恋仲になった異性はいないと話していた彼女も例に漏れず、女としての悦を知り、うしろ帯へと至った。

 可憐だった、彼女は。いつまでも自分が処女だと疑いもしない様子で恥じらい、暗さを好み、声をくぐもらせる。快楽を全身で受け止め震えるその姿。何も知らない少女を自分好みにゆっくりと染め上げる。朱のような己の行いに傾倒していた。


 彼女の態度が変わったことに気が付き、ようやく説得することができたのは期日直前の二十週目のこと。彼女のことは好いていたが、伴侶にしたいと考えていたわけではない。そうした自分の立ち位置を再認識した。彼女が笑って承諾したことを、当たり前だろうと考えていた。

 それから数回同じことを繰り返した頃、根をあげたのは彼女だった。


「もう、赤ちゃん、殺したくない」


 事後、だらしなく膣から白濁を垂らす彼女が、初めて泣きながら話した。


「私の子どもだとしても?」

「……はい」


 胸の奥がざわつく不快感。渇いた喉を潤す水がそれを鎮める。嗚咽を止められない彼女と共にいたいとは思えず、この日初めて、私は彼女のぬくもりを忘れて眠った。冷たい革張りのソファは冷めた時間だけを与える。彼女のすすり泣く声が耳に付く。嫌な夜を覚えていた。


 翌日の彼女は目を腫らしていたが、いつも通り従順な様子を変えずにいた。隣に座り、ころころと笑った。夜は同じ寝具に包まれ、生娘のように体をゆだねて。ただ一つ、事後声を押し殺して泣くことが増えた。

 たった数度の中絶ごときで生まれた些細な母性とやらのせいか、はたまた。前帯にさせるつもりは毛頭なかったが、ここまで泣かれるのなら身を固めるべきかと思い悩んでしまう。数週間をそうして過ごし、彼女は少しずつ泣くことはなくなった。恥じらうことも、嬌声を上げることも。


「私が女にしてやったんだ、喜ばせる努力をしたらどうなんだ」

「今は君を相手しているけれどね、いいかい。君以外に手を伸ばしたっていいんだよ」

「君がそのつもりでいるんだったら、私も好きにさせてもらう」


 何度か伝え続けた言葉も、相手の反応がなければ意味を成さない。生ける屍のように苦しむ姿を日常に晒され続けられるのは、己の精神面を考えても好ましくはなかった。時折切なそうに下腹部を触る姿が呪いのように脳裏に遺る。

 あれはそう、紅葉が街を染め上げた秋のとある日だった。朱に色づき、甘い香りを充満させる街をタクシーで通り過ぎる。泣き腫らした彼女を隣に乗せて。有名な産婦人科医院を受診するために。


「私はこのまま仕事に行くから。支払いはこれで済ませなさい」

「……はい」


 目深に帽子を被り、たどたどしい足取りで医院へと入っていく彼女を見送った。彼女の情けない姿を見てしまったようだった。この頃には、彼女に感じていた魅力とやらは一粒程度しか残っていなかったように思う。


 私が彼女を手放すことを決めたのは、手近に新たな女ができた時だった。彼女よりも従順で、適度に恥じらい、男を悦ばせることも忘れない、そんな女が。彼女が卵管結紮術とやらをすると決めた話は覚えている。それだけでなく、その手術による創が下腹部に刻まれた姿を見て、彼女への想いが一つもなくなったことも。


「他人の手で簡単に染め上げられる君が好きだったんだ。でも、そうじゃなくなってしまったろう」


 とある深い夜夜中が、ひとしきり泣いた彼女との別れを決めた日だった。スモークを焚いたような夜霧が充満する秋の夜。互いの心根さえ霞んで見えなくなっていた。


 □


 紺色のドレスを優雅に着こなす彼女は、薄く微笑んだ。私が何を考えていたか、彼女は感じ取っていたのかもしれない。それほどまでに濃く、私の存在は彼女に刻まれていただろうから。


「夫は私の罪も受け止めてくれました。一緒に泣いて、苦しんでくれました」


 彼女の強い瞳が私を射抜く。彼女を一人の女性として自立させたであろう自信が、その瞳や表情の端々から感じられた。使い潰しのきくラブドールも同然だった彼女から。怒りや屈辱の色は既に伺えず、ただ穏やかに彼女は笑う。


「仁さん、私妊娠したんです」

「にん、しん」

「はい。夫との子を」


 彼女が膨らみのない下腹部に手を添える。その動作から目を離せないままだった。妊娠。何度もその言葉を脳内で反芻する。卵子は出ないはずだ。彼女がそれを望み、そのための手術を行ったのだから。


「オペの前に産婦人科の先生と話して卵子凍結をしたんです。可能性が厳しいとしても、彼も子どもを望んでくれたから」


 すでにその笑みはあの頃とは違い、母性を自覚した人妻のものとなっていた。彼女が続けて語る言葉のどこにも、既に私の姿はない。深い霧の中、たった一人取り残された事実が、すうと酔いを連れて去っていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る