五夜 夕嵐

 白い肌を強調すると、彼が喜ぶ。女性の肌は白く、そして細く引き締められている必要があった。筋肉質であることは求められていない。すらり、しなやか、陶器のような。そうした文学表現を彷彿とさせるような体躯を体現する必要があった。

 けれど筋肉質であってはいけない。節制と努力とで作り上げた肉体であっても、そうした努力を見せてはならない。私の努力は私の中だけで生きており、他者が何かを物申せるような位置にあってはいけないのだ。そもそも、そうした努力の影が見えてしまうこと自体、求められていない。


 ガードルに脚を通す。


 女性らしさ、とは。普段よりも位置の高くなった臀部を一撫でし、そのまま手を横腹へ進める。硬い骨盤から柔らかな腹斜筋へと。力を籠めると腹直筋がその姿を現した。彼にも見せない努力は、わずかに蓄えた皮下脂肪の中に身を潜める。

 求められる女性らしさは、見てすぐわかる位置にある筋肉からは得られないらしい。細すぎもせず太すぎもせず、かといって標準体重よりは数キログラムから十キログラムほどの瘦せ型であり、張りのある肌を伴わなくてはいけないのだ。

 胸に対して細かな希望を出す異性は少ない。形、大きさ、感度。そうしたいくつかの要素でしか語られない部位であるけれど、こうした正装をする場において、「それが胸である」と分かる程度の存在感は必要だ。

 トップとアンダーによってサイズが決まる事、肋骨の開き具合でも胸の位置が変わる事、肩と肘の間に乳頭がないと胸は正しい位置にあるといえない事。それらを知らない異性のために、分かりやすい女としての特長を惜しみなく見せつける。女性をある種の消耗品として観る男にとって健康的な肉付きといわれる体躯こそが至高であり、私たちはそんな男の誰か一人を手中に収めるために必死になっていた。

 露わになったままの、性の象徴ともとることができるそれを包む。左右差がないよう、右側にはパッドが入っていた。下から支えるように秘密を仕込み、鏡を見る。丘のようなやわらかい張りと、かろやかな弾力。

 ささいな差なんて男は気にしていないだろうけれど、こうした小さな細工をして初めて、整った女性であると他者に評価される。彼らの設けた外見の基準を越えて初めて、女から女である私を見てもらう事ができる。


 紺色のタイトなドレスに袖を通す。


 鍛えられた曲線が、より私を女として強調した。鏡の前で数度、体のラインを確認し息を吐く。どこからどのように見られたとしても、そこには完全な女性らしさをもつ一人の女が存在していなくてはならない。伴侶と呼ばれる彼の横に立つ間、表面上の私と彼しか知らない人達の前に出る時には、女性は正しく男性を引き立てる役割ではなくてはならない。そして、私はその生き方を自分の中で肯定している。

 身を翻すごとに、切りそろえられた長く黒い髪が風にのって踊った。照明を受け、天使の輪が映る。肌は白く、髪とのコントラストが強く映えた。ドレッサーの前に座り、何もしていない素肌のままの自分自身を見る。クマと赤みがぱらぱらと存在する顔に、ため息がこぼれた。どれだけ見た目を取り繕ったとしても、少しずつ年齢を隠すことが難しくなっている。しみやほくろがないだけきっと良いのだろうけれど、自然と哀しい気持ちになってしまう。


 ひとつだけ、意を決するように息を吐く。何をどう悩もうが今さら顔の作りが変わることは無いのだから。

 化粧水と乳液、美容液で顔を整える。下地対応の日焼け止めを塗り、コントロールカラーの下地を赤みをともなった場所に置く。薄黒いクマが顔の疲れを際立たせる。いつ見てもひどい顔だと思う。特別大衆に羨ましがられるような顔ではなく、社会に出るために化粧という手段で自身の顔に残るすべてをひた隠さなくてはならない。

 彼が求めるシャープな印象を作るため、シェーディングを輪郭へのせる。強い女と思われることは好きではなかった。彼を求めて寄る女性たちは誰も可愛らしく幼い印象を抱かせる容姿をし、彼の好みで染め上げた私を骨董のように扱うのだから。もしかしたら可愛らしい彼女たちの誰かの手を、彼が取るかもしれない。漠然とした不安は常に傍に寄り沿っている。

 けれど不安であることは彼に対して不誠実以外の何物でもない。馴染ませたコンシーラーをファンデーションの下にそっと隠す。クマも赤みも、ファンデーションを塗って実感する肌のくすみも、全て。その上からまたファンデーションでも隠すことができなかった粗を隠すため、パウダーをはたく。


 昔はこの顔が嫌いだった。周りの子達は丸顔で愛嬌があるのに、私だけ面長で顔を構成する部品たちは大きさがまちまちだ。目の左右差も、鼻が少し大きいことも、笑うと歯茎が出てしまうことも、全部が気になって仕方が無かった時代がある。

 化粧を覚え、まつ毛パーマを知り、少しずつではあるけれど自分の顔を構成するパーツたちを愛することができたように思う。それすらも、男のためという陳腐な言葉で処理されるけれど。私のためにしてきた行為が、他者によって私以外の誰かのための行為になってしまうのだ。


 メイクブラシでアイシャドウをのせていく。二重幅にメタリックなオレンジブラウンの色を、そっと。上瞼と目の境が少しずつ彩られていく。アイホールとアイシャドウの境界を曖昧にぼかす。毛束の細いブラシへ持ち替え、下瞼の目じり側にラインを引くようにして同じ色を塗る。

 アイブロウとして使うやや濃いブラウンのパウダーを、下瞼の際にのせていく。涙袋にゴールドを置き、黒目の上下にやや厚くラメを載せる。乾いた眼球が瞬きで少しだけ傷んだ。アイライナーを目じりに引き、ようやく目が生み出される。

 平たいブラシでアイブロウを済ませる。鏡の向こうには、隙も可愛げもない女がいた。彼女は私をじっと見ている。紺色のドレスをまとって、黒く長い髪を垂らして、微笑んだ。


「嫌な顔」


 それでも彼女は笑う。私はふいと目を背け、赤のルージュを重ねる。そうして深く深く呼吸をする。目を開けば鏡には私が映っていた。彼の求める、強い印象を与える女が。

 じきに迎えのタクシーが来てしまう。彼のメッセージに返信を済ませ、ドレッサーの上に出された化粧品を片付けていく。リビングにある大きな窓からは、嫌なほど眩しい西日が射し込んでいた。思わず見惚れ、動きが止まる。部屋の隅々を染め上げる西日。

 西日を受けて染まった雲の流れは速い。この風の強さならきっと夜は冷えるだろう。別室のウォークインクローゼットから大判ストールを取り出す。気に入っている胡粉色のストールを肩にかけた。

 ハンドバッグに薄い財布とハンカチ、最低限の化粧道具を整頓して入れる。西日を遮るためにカーテンを閉じれば、室内は静まった黒のみで覆われた。スマートフォンは手に持ち、廊下へ進む。シルバーのハイヒールを履き、玄関を出る。エントランスには数組の親子が世間話をしている様子があった。

 その横を通り過ぎ、停車しているタクシーへ向かう。外へ出るとひときわ強い風が吹き、髪が下から巻き上げられた。夕嵐。遠く夕暮れの中に靄がかかっている。乗り込んだタクシーに揺られるまま、靄が覆う街へと向かう。







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 せきらん、あるいは、ゆうあらし。


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