四夜 ねむれない夜のしょほうせん
寒風に吹かれる暗い夜道は、夏場の帰路に比べてひどく長く感じてしまう。ダウンのポケットに手を入れ、肩を縮こまらせて道を進む。どこか青みのある黒い空を土台に、灰色の雲が新規レイヤーとして描かれていた。
蒸気機関車のように鼻から出す息も、分かり切った白い息を口からふうと吐き出すのも、この時期特有のあそびだった。ぎりぎり終電に乗り込むことが成功し、あたたかな座面に腰掛ける。尻からつま先までをじんわりと熱するそれは、労働と学業で疲弊した体を安眠に誘うには強烈すぎた。欠伸を噛み殺し、鼻をすする。
日が越えた頃に着く家は、どれだけ冷えているのか。新築、無料ワイファイ付き、駅まで徒歩十分圏内という好立地。一階に位置する部屋は地面からの冷気で床がキンキンに冷える。北向きの部屋は、どれだけ外が明るかろうが室内に直接太陽光を取り込むことはない。
ポケットにしまいすっかり冷えてしまった携帯を取り出す。まだ冷えて強張る指先で、たどたどしくロックを解除する。メッセージアプリには様々な店舗からのお得情報が届いているだけ。非表示にすることも面倒で、複数選択したそれらを削除する。自動音声のアナウンスが流れた後、電車は一鳴きして動き出した。アラームをセットし、背もたれに体を預ける。もう瞼は開きそうにない。
手の中で震えた携帯に、ゆったりと幕が上がるように意識が戻る。アラームが鳴る予定時刻まで、まだ二分の猶予があった。睡眠を欲する体を無理に起こす。伸びたチーズのように切れの悪い意識と瞼。軽く頭を振り、両眼を擦る。
通知は眠れぬ子羊会からのものだった。たった五人しかいない、顔も名前も知らない親友たちと繋がる場。電車を降り、改札を抜ける。あたたまった体から一気に熱を奪う冷気に震えながら、家を目指す。
□
アラゴネセ 昨日23:57
今日のミサは?
ロムニー 今日00:00
ロムニーは無理。今日は眠れそう。
アラゴネセ 今日00:00
そっか、良かった。しあわせな夜を。
ロムニー 今日00:01
うん。アラゴネセも、しあわせな夜を過ごしてね。
□
熱い湯のシャワーを浴び、湯冷めしないよう髪をドライヤーで乾かす。眠れぬ子羊会からの通知がいくつか入っているのを、チャット欄を開いて確認をする。ロムニーのコメント後は動いていないものの、ボイスチャンネルにはアラゴネセが一人で参加していた。
人がいれば日付を越えてから始まる、ミサと呼ばれる通話の時間。眠れない夜と眠れないもの同士の交流を、眠れないからこそ出会えたと感謝するような秘密のかかわり。夜を手放せない、進む世界に未練を残した個人が集まった小さな繋がりの場。支度を済まし、愛用するノートパソコンにヘッドセットを接続する。上がり調子の電子音がアラゴネセに届いた。
「おつかれ」
「あれ、おつかれぇ。今日なんかあれ? バイト遅いって言ってなかった?」
「え? もう一時過ぎてるからさすがに遅くない?」
「あーそっか。アラゴネセのことも、そっち側に連れてってよねぇ。チェビたんったらぁ」
間延びし、とろりと溶け出したような声色のアラゴネセは、一人でうふふと笑う。「連れてって、なんて無理なのにねぇ」と遠くを見つめているような、諦めを包含したような、そうした声音を彼女は扱う。肯定も否定もせず、僕は着地点のない相槌を返事にして、検索エンジンを開いた。
眠れぬ子羊会。今は眠っているらしいロムニーはひどい中途覚醒を患い、日付が変わる頃に入眠し、一時間半ほどで断続的に覚醒する生活を送っている。アラゴネセやロムニーのメッセージにリアクションだけを残すアワシとメリノは、それぞれの夜を過ごしているらしい。
「年上の名前に“たん”なんて付けるもんじゃないよ」
「いいじゃーん。チェビオットなんて長すぎるし。アラゴネセのことも、もうちょっと違う名前で呼んでいいんだよ?」
「じゃ、今後アラゴセネって呼ぶわ」
「あいかわらずちぇびたんセンスないねぇ、へへ」
今にも寝てしまいそうな様子で、アラゴネセは話す。時折会話が途切れる沈黙は心地よく、調べ物が予定より早く進んでいた。一人で何かを語るアラゴネセに相槌を返すと嬉しそうなゆるい笑い声だけが戻る。
アラゴネセについて知っていることは少ない。耳に入る声色から察するに女性であり、どうやら高校生らしく、特発性過眠症に悩んでいるらしいということしか知らない。それだけしか知らないけれど、学友以上の関係値が互いの間にあることは確かだった。
ただ眠るために、未明と呼ばれる不確実な夜の世界を共に過ごす。未だ明らかではない時間帯。眠れずに過ごす人間にとっては明らかな時間帯ですら、大勢の人間の生活においてはうやむやにされてしまう。眠れぬ夜はないと考える人間が大部分を占める。今日は眠らずに過ごす自分自身にとっても、普段は知らぬ間に過ぎていく時間だ。
「あさってさぁ、ちぇびたん」
「なに」
「あさにねぇ、アニメのえーがやるんだよね」
日曜日の朝に。声に出さずに反芻し、新しいタブを開く。小中学校はじきに冬休みが始まるようで、週末の彩りと早起きのために三週連続で放送されるらしい。ゲームシリーズが原作であり、全作を遊んだ経験があるらしいアラゴネセはそれを見たいと考えているようだった。
「おきれないきがしてさぁ。まーたそういうフェーズ? みたいなさぁ、かんじ」
「例の過眠?」
「そ。オーロラ姫みたいだよね。現実はまったく違うけど」
明瞭になった声の奥でガサガサとビニール袋を漁るような音がする。スリッパで歩く音も、ヘッドフォン越しに耳に届いた。
「ちぇびたぁん」
「眠そうすぎない?」
「ねむたいんだよーだ」
衣擦れの音がする。声を押し殺して笑う彼女は心底楽しそうだ。ゆったりとしながらも、速く過ぎる不確定の時間。午前三時が近づいてくる。
「ちぇびたんはさ、あしたおきるの?」
「ん-。まあ、もう今日だけど起きる予定だよ。そっちは?」
「次いつ起きれるかわかんないんだよね、わたし」
「それは聞いても大丈夫なやつ?」
「ぜんぜんへーきー」
くすくすとアラゴネセが笑う。
「じゃあ、寝る準備してから聞くかな。端末切り替えてくる」
「はーい、いってらっしゃーい」
ヘッドセットを外した耳が、室温ですうっと冷える。外耳道のかゆみを耳かきで制し、綿棒で薄くかゆみ止めを塗る。もうすでに重たい瞼をなんとか開きながら、パソコンをシャットダウンし、アラゴネセの待つミサへと戻った。デスクではなく、冷たいベッドに体を滑り込ませて。
「おかえりー」
「ただいま」
「ちぇびたんはさぁ、夜寝たくないなって思うことある?」
「眠れない時はあるけど、別にない」
「まぁそうだよねぇ」
衣擦れの音が響く。アラゴネセが静かに動く間、徐々に温まる布団に睡魔が刺激されてしまう。
「今寝るとさ、次いつ起きれるかわかんなくって。本当に眠り姫みたいな感じなんだよね」
「今の話し方眠たくない人っぽい」
「ふふっ、ねむいんだけどねぇ。ねたくないんだよねぇ」
「俺は眠たい」
「おきてるじかんに、みれんがないっていいなぁ」
心底から吐露したようにきこえる声は、ぼんやり靄がかかったように眠気が広がる脳内にじわりと滲んでいった。夜に、未練か。よく考えようにも自然と閉じていく瞼に抗うことが難しい。
「ちぇびたーん」
「まだ起きてるよ、大丈夫」
「ビデオつーわしませんか」
「……もう寝るよ?」
「ひとりでねるの、こわい」
「……はい」
ボイスチャンネルを抜け、アラゴネセとの個人通話に移動する。互いに顔を映すわけではないが、時折こうしてアラゴネセが眠るまでの時間を共に過ごすことがある。眠るのが怖いと話すアラゴネセが目覚めるのは、一日後か二日後かは分からない。
数か月ほど一日のほとんどを眠って過ごす彼女は、睡魔や眠るという行為に強い不安や恐怖があると零すことがあった。『眠れる人には分からないよね』と自嘲気味に笑って話した声色が耳に残り、ミサを抜け出した個人的な関わりを続けている。しあわせな夜を過ごすことができるようにという、眠れぬ子羊会が掲げる理念を建前に。
「アラゴネセ」
「なぁに。ちぇびたんもねむたそうだねぇ」
「また待ってる。今日はしあわせな夜を過ごして」
「……そうだねぇ。みんなと待っててね、ちぇびたん」
「もちろん」
「ありがと。ちぇびたんもしあわせな夜を」
震えたようにも聞こえた彼女の声。数分後、か細く規則的なアラゴネセの寝息が聞こえてきた。通話を切り、本格的な睡眠の支度をする。首元まで毛布をかけ、一息大きく吐き出す。アラゴネセがしあわせに夜を過ごせたらと、浮かんだ思いはぱちんと弾けた。
□
ロムニー 2023/12/18 23:48
数日ぶりだけどアラゴネセいないんだね
チェビオット 2023/12/19 01:37
たぶん過眠期。今日の映画楽しみにしてたんだけどな
ロムニー 2023/12/19 01:37
また起きちゃった。アラゴネセの知らない間にどんどん日が進んでいくから、またいっぱい面白いこと仕入れとかないと
チェビオット 2023/12/19 09:51
喜びそう。見れなそうと思って録画しといたし映画一緒に見るか
メリノ 2023/12/19 10:00
お久。アラゴネセと映画見るとき呼んでー。録画し忘れた。
ロムニー 2023/12/20 04:03
私も!
チェビオット 2023/12/20 06:27
了解。アワシも呼ぶよ?
アワシ 2023/12/20 06:27
♡
メリノ 2023/12/20 21:11
アラゴネセが戻ったら、しあわせな夜をみんなで過ごそう。僕らは五人で眠れぬ子羊会なんだから。
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密やかなミサは今日も始まる。
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