三夜 金魚は円周率をおぼえることが出来るか?

 今日はとても天気が良く、ソファの傍にある大きな窓からは時間帯によって空が様相を変えていた。朝は太陽のあたたかな日の光が差し込み、昼食を摂ってからは羊雲が空を彩る。そうして今、あたたかな橙色の光がこの部屋を包んでいた。こうして空が表情を変えていくというのに、私以外の誰もそのことを気に留めない。

 ふしぎな世界だと思う。この部屋全体を染め上げた橙は太陽の居場所を奪ってしまったけれど、一目にはうつくしいと映る。私の目にも、その美しさはありありと映っていた。けれどゆっくりと黒が追いかけてくることも、外が見えないようにカーテンを閉め、蛍光灯が付いてしまうことも知っている。

 少しうたた寝をして外を見るも、私がまぶたに閉じ込めた橙色は一つも残っていなかった。窓には私の顔が黒く縁どられて映る。この世界は着色料と添加物、それと少しの保存料でできている。


「はぁ、おはよう。あっという間に夜になってしまったのね」


 独りぼっちの部屋に私の声は溶け出した。吐き出した途端に形を失い、簡単に霧散してしまう。ベッドライトを付け、挨拶を交わしたテディベアを抱き締める。白色電灯の小さな空間以外、真っ暗な影が落とされていた。

 昼間とは違い、夜は色を変えぬ黒が永遠に感じられるほど長く滞在する。この電灯とテディベアだけが私と共に夜を越すのだ。心細いけれど、眠りなおすこともできない午前一時。昔はお父さんとお母さんが一緒に過ごしてくれていた。怖い夢を見たって『大丈夫よ』と優しく抱きしめてくれる、そんな手が恋しくて、テディベアを握りしめる手に力がこもる。

 けれどもう独りぼっちになってしまったから、寂しさとか辛さとか、そうしたものは少しずつ薄れていた。あの橙のようにあたたかく包んでくれるならいいのに。どうにか眠って夜を過ごすことができるよう、瞼を閉じる。それくらい、あの橙に染まった世界はうつくしかった。


 目覚めた朝は薄曇りで、陽射しは見えない。重たい瞼を開ける。テディベアはベッドの下を転がり、うつ伏せに倒れていた。ベッドの淵に立って手を伸ばそうにも届かず、何度も態勢を整えて挑戦するがどうしても難しく、諦めてまたベッドの横になる。テディベアの哀しみを知るため、私もうつ伏せだ。

 誰かに決められたわけでもないのに、ここ数年ベッドから出たことはない。ここだけが私を守ってくれるという思い込みもないけれど、思い返すと、全ての動作をここで行っている自分がいた。食事も排泄もベッドの上。それを咎められたことはなく、褒められた記憶のみがある。

 汚れた食後のシーツも、排泄物でまみれたシーツも、女中さんが一日に四回変えてくれることを知っている。


「臭くて汚いでしょう」


 そう笑いかけたけれど、女中さんは小さく会釈をしただけ。彼女の真意までは知ることはできなかったが、知ったとして私はベッドでの生活が続く。真意は知らなくて良いのだろう。知ってしまったところで、何を改善した方が良いのかも分からないのだから。

 それにきっと彼女は私とはまったく違う立場にあるのだろう。たった一言といえばそうかもしれないが、私が誰よりも欲しい他者とのかかわりを彼女は拒否するのだ。欲しいものはいつだって手に入らない。いなくなった友人も、もう撫でてくれない父も母も。

 囚われの身といえば同情してもらえそうだけれど、私は今この場にとても満足していた。ただ座ってすごすだけで生きているわけではない。ベッドの上だけれど私は自由に動き回るし、ゲームだってする。テディベアをさかさまにして、倒立勝負をすることだってあるのだから。

 それに、私は変わらない場所に強い安心感を抱くのだ。女中さんが替えるシーツも真っ白で決まった折り癖だけが付いている。室温が高くなった時、西日が強くなった時、カーテンが閉められた時、お父さんやお母さんが眠る時。そうした決まった時間に女中さんは表れて、私のベッドを美しく整えてくれているのだ。

 私は恵まれていると思う。ここに居さえすれば私は辛さや苦痛を忘れて過ごすことができる。汚いものや汚れたものはすべて女中さんがきれいにしてくれて、その一切を私は知らぬ振りができるのだ。きぃ、と扉が開く音で目を開く。白んだ空は変わらない。

 唯一の出入り口からやってきた女中さんの手には、銀のトレイがあった。そこには白い皿が載っており、玄米のような茶色い主食とサラダ、真っ赤なウィンナーが載っている。それでも笑顔で、私は言うのだ。


「今日の朝食は何かしら」


 そう、女中さんに。ここ数年変わらない食事ではあるが、与えられることの嬉しさの前には不満の種は一つも芽吹かない。食事の時間が楽しみで、心が躍ってしまうほどだ。

 ヘンダーソン先生は、食事は楽しいひとときと言っていたんだもの。不満を見つけようとすれば数個は見つかる。だけれど食事を楽しいと思う事を義務にしたのなら、与えられたものがたとえ同じものであろうとも、楽しそうにしなくっちゃ。


「本日は旦那様の御好意で、鰹節と煮干を使用したスープもございます」

「まあ! 今日はとっても素敵な日ね!」


 思わぬ誤算に、わっと嬉しさがこみあげる。スープだなんて最後に口にしたのは一体いつのことだったか覚えていない。毛布や布団を整える女中さんの姿を見ながら、私は鼻歌を奏でる。女中さんは食器同士がぶつかる音を立てないよう、慎重に慎重に食事の準備をすすめる。

 お父様がよく聴いている、有名な海外の歌。大きなテレビジョンからよく流れていた。たしか車のコマーシャルに使われていたはず。この曲のリズムや明るさが好きで、天気の良い日や気持ちがたかっている時には、よく一人で鼻歌を奏でる。同じフレーズを何度も、何度も。


「ご用意が終わりました。また食後伺います」

「はーい」


 女中さんが部屋を出る前に、床に落ちたテディベアを拾ってベッドへ戻してくれる。これまでの女中さんであったなら、眠る前までは拾ってくれることはなかった。どうやらこの人は女中としての在り方を知っているのだろうと、わずかに思う。

 けれど目の前に用意された熱々の食事を見ていたら、そのような思いは遠くへと吹き飛んでしまった。胸いっぱいに香ばしいソーセージやドレッシングの香りを感じ、少しずつその香りを吐き出していく。

 フォークを手に取り、こんがりと焼けたソーセージにぷすりと刺す。腸を貫いた瞬間に飛んできた肉汁。噛み切ると、子気味良くパリッと音が鳴った。噛めば噛むほど塩味が出てくるソーセージを咀嚼し、飲み下す。次々と食べたくなってしまう衝動を抑え、気持ちを落ち着かせるためにもサラダを頬張る。みずみずしい葉物と、素材の味以外を楽しむことができるドレッシング。

 塩辛さを感じたソーセージと食べるには、適切な組み合わせだった。交互に食べ進め、皿に残ったソーセージの肉汁と主食とを食べる。ほんの十分ほどで食べ終えた食器とフォークをベッドの足元へ追いやり、帰ってきたテディベアを抱いた。


「おまえ、鼻がもっと潰れたりしてなくて良かったわね」


 硬く黒い鼻を撫で、ぎゅうっと強く抱きしめる。ベッドヘッドに背中を預けてテディベアと戯れていると、女中さんの一人が一冊の本を持ってやってきた。勉強も読書も必要に迫られてきたことはない。それもあり、じいっとその本を訝しげに見やることしかできない。

 女中さんは何も言わずに本をベッドに置き、無言で食器を下げていく。部屋を出ていく姿を見守ってから、本を取る。『永遠の旅路』と書かれた表紙は、読んだことのない異世界の冒険譚だった。フィクションのような、そうではないような、不思議な感情を抱かされる。

 鳥類の大きな被り物をした謎多き青年と、汗や涙が宝石となってしまう少女の冒険譚。互いを一途に名前で呼び合い、果てしない荒野を進んでいく。この世界にはない動植物との出会いが、瑞々しく鮮明に描かれたこの本に心を奪われてしまった。

 想像をしてもしきれないほどの世界が、本の中にある。朝食後、毎日お父さんから与えられる本を読むことが日課だった。お父さんの双子の娘も、ソファに座って思い思いに過ごしている。一人ぼっちで楽しむ読書は、私に時間を忘れさせた。


 一冊本を読むごとに、私という生き物が作り替えられるような錯覚がする。今までにはなかった考え方が、様々な登場人物の信念や言動を通して私に流れてくる。ベッドから見る空間が世界の全てである私にとって、これほど心が躍ることはなかった。

 あなたの世界は窮屈ね。そう私に向かって話した女中さんは、気が付いたら時にはいなくなってしまっていた。私の世界は、いつだってお父さんが広げてくれる。それを間違いだと思ったことは、今まで生きてきた中で一度もない。

 けれど、窮屈? ばかを言わないで。今こうして手元で広がる大きな世界は、私を遠くへと連れて行ってくれる。このふかふかなベッドにいながらも、私は杖と魔法の世界に飛び立つことができるし、見知らぬ動植物と共に旅に出られる。それのどこが窮屈なのか、私には知る由もない。


 本を読み進めていた手が止まる。着ている赤いサテンのネグリジェをたくし上げ、ベッドの隅にしゃがむ。我慢しすぎていたかもしれないと思いながら、古びて濾過された私が外へと逃げ出した。思わず身震いをしてしまいそうになりつつも耐え、少し体を前傾にして下腹部に力をこめる。

 圧迫感の消えた下腹部と収縮する括約筋に、浅く長い息を吐いた。立ち上がり裾を下ろして、テディベアの横に座る。裾がわずかに濡れ内ももに垂れてくるけれど、そんなことはいつものことで気にならない。

 ちらとソファに目線を送ると、双子の姉妹が仲良く宿題をやっていた。彼女たちは一緒に遊んでくれるけれど、私の世界を広げようとはしてくれない。けれどこうして遠くから、彼女たちが何をしているかを見る時間は好きだった。

 今日は鉛筆と消しゴムを持ち、頭を抱えて悩む姿が多く見える。こうしてテディベアを抱いている私には縁のないようなものを、彼女たちは必死にこなす。あまり興味は無かったけれど、赤い丸が増えていく紙を嬉しそうに見る彼女たちを見ていると、一緒に嬉しい気持ちになってしまう。


 外はまた、橙色に染まりだした。絵画や、写真集の一ページに飲まれてしまったように、部屋全体が染め上がっていく。時間をかけてゆっくりと。私自身もきっと同じようにオレンジ色になってしまって、きっと世界と一緒に溶けてしまう。

 欠伸を一つ。朝食と変わらぬ昼食もとっくに済み、あっという間に夕食の時間が来てしまう。双子が準備した食事を、女中さんが配膳しに来た。配膳と合わせて、排泄物で汚れたシーツを交換してくれる。本の中のキャラクタたちは、もう最後の旅路を進み始めた。本を閉じ、用意された食事に手を付ける。夢見た骨付き肉や魚の塩焼きも、この食事と同じ味がするのだろうか。

 いつも食べている物の味が薄くなった気がする。唾液が出るほど美味しそうだった数々の食事を、私は食べたことが無い。双子も女中さんも、そういえば私とは違うものを食べている。最近お父さんと会っていないけれど、どうしてしまったのだろう。


「私の知らないことばっかりね」


 空の皿を床に落とすと、聞き馴染みのないパリンという音が聞こえた。下を覗くと、皿がいくつもの三角に割れている。皿って、こう割れるんだ。テディベアを落とす。彼は割れない。ただ、まだ空が青くうつくしい時のように、鼻を下にしてぴくりとも動かないのだ。

 ぼすんとベッドに倒れ込む。天井は広い。ここ数日、お父さんの姿を見ない。私に選んでくれている本は、本当にお父さんが選んでくれているのかしら。落ち着かず、何度も寝返りをうつ。視線を感じて起き上がると、今日は女中さんではなく双子が部屋に遊びに来ていた。


「やっぱりかわいいね」

「ねー。ひらひらしてるね」

「ね」

「……あ、ありがとう」


 きゃははと笑い、二人は部屋の奥へと駆け出していく。落ち着かない時間。安堵にも似た息を吐き出す。あの二人にとってもお父さんがいないだなんて、寂しいんじゃないだろうか。私がただ一人寂しいと感じているだけかもしれないけれど、それでも、ああ、お父さんの顔が見たい。

 あの部屋の奥に、もしかしたらお父さんはいるのかもしれない。双子の声は駆け出して行った部屋の奥から聞こえてくる。そこに私も行きたい。体を起こし、そっとベッドの下を見やる。地べたに足は着きそうだ。けれど、あの皿のように割れてしまったらどうしよう。

 視線の先にある割れた皿と、うつ伏せのテディベア。交互に見てから、目を閉じる。ふうと、深呼吸を数回。女中さんも双子も、対の足で近づいて戻っていくのだから。私のこの足だって、進むことも戻ることもできるはず。

 足を下ろした地べたは硬く、ひんやりとした。皿のように割れず、テディベアのようにうつ伏せにはならない。自分の手でテディベアを拾い上げ、ベッドへと戻す。どうしてこんなに簡単なことを、今までできなかったんだろうか。

 双子が駆けていった場所へ向かって、私も駆け出す。夕暮れで満ち満ちた世界へ、希望しかない外の世界へ。ああ、ようやく。ベッドの外はとても広くて、どうしてあの場所に囚われていたのだろうと思うほど。何度もよろけながら、遠くへ遠くへと向かう。

 ぴちょんと、水がはねた。



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 金魚は円周率をおぼえることが出来るか? / 敬愛する人より

 初稿2014年 改稿2023年11月20-21日


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