6w1h1r ⑥

 詰所に戻り、心モニターを確認する。脈拍は変わらず低い状況ではあるけれど、アラームはもう鳴らない。一定のリズムで脈打つ心臓の姿を数秒眺め、先ほどの経過を書くために志村はパソコンを起動した。よく働かない頭で、どうにかこうにか先程の出来事を文章として出力する。

 訪室した経緯、バイタルサインと意識状態、点滴の投与量や投与速度、どのような対応を行ったのかを。記録を書き終わる頃には介護福祉士の二人が詰所に戻ってきて、記録を書き始めてから三十分以上が経過している事実に志村は内心で驚いた。

 仮眠を。仮眠? 私は一度もう休憩に入ったんじゃなかったか。キーボードの上で手が止まる。日勤者が帰った、消灯後に夕食を摂った、看護記録を書いて足立主任が戻ってくるのを待って――。一体いつから詰所にいたのかすら、思い出そうにも思い出すことができない。

 思い出すことを諦め、再びキーボードを叩く。推敲するように一度目を通し、内容を保存してカルテを閉じた。四時になり、ロビーの奥は薄く明るさが広がる。時間の感覚が進んでいるような巻き戻っているような。記憶にずっと残った赤子の声が、耳鳴りのように反響する。

 ガランドのリズムと共に聞こえるその呻吟が広がり、モニターのアラームの一つも聞こえない。足立が立った、ような気がした。目を開くことが億劫で、志村はきつく瞼を閉じる。そのせいでいっそう耳鳴りが大きく聴こえるが、両手で耳を塞いでうなだれるしかできなかった。瞬きすらできないまま、首の後ろが伸びて痛いと思うのみで、動くことはできない。


 ◇


「志村さん、また落ちてきてる」

「っはい! あ、えっと」

「田中さんのとこ」

「あっ、ちょっと行ってきます」


 足立主任の声が通る。耳鳴りはすでに止んでおり、けたたましいアラームが詰所に響いていた。ミヨの脈拍が設定した下限値を下回っている。そして、あと。


「志村さん携帯も鳴ってるんじゃない?」

「あ……?」


 机で震える携帯は、確かに設定されたアラームが鳴っている。それも一つではなく、複数個のものが。急いでアラームとスヌーズを解除する。もともと設定されていたアラームだけれど、それが鳴るようにはしていなかったのにどうして。志村の中に疑問が浮かぶけれど、それよりもミヨの優先度が高く、血圧計を載せたワゴンを持って病棟を小走りで進む。

 ねじが緩く車輪がガラガラと音を立てる。ベッドサイドモニターが小さな音ながら異常を知らせる。脈拍が下がっていること、つい数分前に作動した血圧計は何度もエラーが表示され繰り返し加圧しているらしいこと。目に見えて分かる。呼吸筋をめいっぱい使った、努力様の呼吸をしていることが。


 きっと血圧を測ることも無意味だろうけれど、記録のためにモニター付属の血圧計を外し、持参した自動血圧計を加圧する。赤子は寝ているのか黙ったまま、変わらずミヨの足元にいた。まだ閉じ切ったままの瞼で、志村を見つめる。表には出さない緊張と焦燥と、諦めが見透かされているような不快感の中、橈骨動脈に触れ、頸動脈までゆっくりと動脈を辿る。

 触知できない拍動が、ミヨが死ぬ事実を明らかにする。自動血圧計はエラー表示がされ、指に挟んだパルスオキシメーターには数値が表示されない。まだ血液が弱く循環している身体はほんのりと温かい。けれど、目をあけることもできずに閉じたまま、口を開いたまま呼吸していた彼女の身体は動かない。

 ベッドサイドモニターはまだ微弱に反応しているけれど、ミヨは死んだ。薄い瞼をそっと開けば、黒目のふちはぼんやりと青白い不明瞭さを見せ、瞳孔はぽっかりと散大している。瞼を戻し、血圧計を外す。モルヒネが持続投与されているシリンジポンプの電源を落とし、心モニターのアラームを切る。静かな朝がゆっくりと病室を満たす中、志村と赤子の呼吸だけがあった。

 急変時DNARだから、と割り切っている。人間が死んでいくところは、同年代と比べずっと多く見てきている。ふうと漏れた息の中には、誰にもいえない無力感が含まれていた。


 死んだままの状態で、居室を整える。美しく整えられた室内環境で彼女は治療を受け、そのまま天寿を全うして死にました、という説明がしっくりとくるように。赤子は変わらずミヨの足元にいて、時折手足をばたつかせることはありながらも、黙って寝そべっている。

 病室でできることは何一つなく、ガラガラと音を立てて詰所に戻る。フラットになった心電図は、ここでもアラーム音を消されていた。死ぬまでは重要視される音だけれど、死んでしまえば煩わしいだけのものになる。死に対する薄情さを、他職種の人間や患者の家族は知らない。

 机には足立主任が出してくれたらしい心電図の記録が残されていた。QT延長が続き、その後脈拍が低下し、フラットへ。記録用紙の余白にメモ書き代わりに筆を走らせ、家族に電話する準備を済ませながら足立が戻ってくるのを待つ。

 足立が詰所に戻ってきたのはそれから数分も経たない頃。すでに電話を済ませていると告げられた志村は、端的に感謝の言葉を返した。そして続けられた言葉に「は?」と、惚けた声が出る。


「ゼクっていいましたか、今」

「そう、ゼクだって」


 耳を疑って復唱するも、聞き間違いではない。カルテの情報を見落としているのか。急いでミヨのカルテを開き、情報欄や指示簿を参照するが、そのような記載は一つもない。急変時DNARと同じくらい重要な情報であるのに、だ。


「誰が希望したんですか? 家族?」


 家族にそうした希望がある場合や、希望までいかずともそうした希望を出す可能性がある場合には、全員が周知徹底することができるようにカルテ内に記載するのが暗黙の了解だ。けれど、それが一つもない。

 そもそも田中ミヨの経過については、他の患者以上に細やかな家族フォローをしてきているはずだった。月に一度の定例の病状説明に加え、病棟に届く電話連絡の対応、予定のない面会対応等をどうにかこうにか実施して、家族が一番ミヨの現状に理解を示していたはずだ。この病院でできることは、今が全てである、と。

 だからこそ、いつ死んでもおかしくはない状況の中で転院を了承し、今更セカンドオピニオンをしようとしていたのだろうに。志村と同様の気持ちで足立もいるのか、言葉には呆れと苛立ちが含まれる。


「だから、ゼクなのよ」

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