6w1h1r ⑦

 朝六時が迫る。今日の日勤者が来てしまう前に、朝の処置と必要な記録を済ませてしまわなくてはいけない。ミヨが亡くなったことを日勤者に説明し、転院の取り消しと、ゼク――病理解剖のための転院調整を始めなくては。休む暇もなく朝のラウンドと、ドレーンや点滴の観察を行う。異常がないことを確認し詰所へ戻る。足立は既に戻ってきており、数名の日勤者も出勤していた。

 パソコンを開き、患者カルテの経過表を一覧表示する。部屋番号順に名前が整列された経過表を一つずつ埋め、次の患者へと進む。深夜帯と呼ばれる、零時から朝六時までの時間。普段は鳴りやまないナースコールがぱたりと止まっていた。患者たちは皆息をして、それぞれ朝の支度をしている最中だ。

 静かに朝のにぎわいが広がる。ひどく静かに。タイピングとマウスをクリックする音がいやに大きく聞こえる。いつ家族が来院して死亡確認をするのか、主治医を待つなら始業の八時半以降となるだろうし、そこから病状説明をしてゼクの同意をとり、転院調整が始まるはずだ。前の経験ではまる一日、日勤担当がゼクのことしか行う事ができないほどの大きなイベントだった。


「志村さん、行くよ」

「行くって……」

「そろそろ来る頃だから」


 立ち上がった足立について廊下を歩く。行く先はミヨの病室。歯のない口が弛緩し開いたまま、寝ているように整えられたミヨの姿。ベッドのストッパーを外した足立が、頭側へ移動する。出口に向かって押されたベッドを見て、志村はあわてて足側のベッド柵を支えた。ゆっくりと病室から出されるミヨの足元には、声を上げなくなった赤子も変わらずいる。


「足立主任、お連れしました」

「あ、ごめんねぇ。ありがとう。一緒に連れてきてもらえる?」


 足立が誘導するベッドはゆっくりと業務用エレベーターへと向かっていた。どの病室の扉も開けられたまま、検査に向かう時のような気軽さで。野尻が押す車いすには、足立が看ていた相沢という男性の患者が座っていた。相沢は病衣の上から暖かそうな綿の半纏に袖を通し、どこか不安そうな表情で周囲を見ている。その姿を見つめる志村と目が合うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。

 業務用エレベーターに続く扉を開けたところで、「私と野尻さんで行ってくるので、志村さんは病棟のことお願いしてもいい?」と足立が志村に声をかけた。それを二つ返事で了承し、下を示すボタンを押す。すぐに動き出したエレベーターは数分と待たずに到着し、あんぐりとその口を開ける。

 患者移送だけでなく出退勤時にも利用する使い慣れたエレベーターが、今日はどうしてか異質なものに思えてしまう。ベッド一台と車いすがぎりぎり横並びになることができる広さに、ミヨと足立、相沢と野尻が乗り込んだ。志村はただ黙ってその姿を見つめる。閉まっていくエレベーターに向かい、志村は深く頭を下げる。


「みますか?」


 そっと耳元で、誰かに言われた。けれど志村は答えられない。聞き覚えがあるように感じるけれど、いつ、どこで聞いたのか、誰の声であるかも分からない。数秒経ち頭を上げる。エレベーターは何事もなく地下二階へ着いたようだった。踵を返した志村の目に、すがすがしいほどに真っ青な空が映る。人の旅立ちに合う、快晴の空だ。

 詰所に戻る志村の足音が廊下に響く。病室はざわざわと騒がしいにも関わらず、その音は廊下には漏れてはこない。ナースコールも鳴らない。志村自身の足音だけがいやによく響いく。

 詰所に戻るにはもう曲がらないといけないはずだけれど、その曲がり角がどこにもない。今が何時なのかが分からない。どうして、あの四人で降りて行ったのかも分からない。ゼクをする理由も、ゼクのための調整をしていたのかも、本当にゼクに行くのかも分からない。

 けれど志村に疑問はなかった。そのように、決まっていたことだった。足立が行くと言ったから、ミヨのことは足立に任せたのだ。今が何月何日で、いったいいつなのか。本当になにも分からない。詰所が遠い。ぐわりと視界が揺れた。踏ん張りの利かない身体が床に打ちつけられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

七夜、八夜、【短編集】 浅葱 游 @asagiyuuuuuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ