6w1h1r ④

 同じ音色が流れている。ずっと。止まらない、リピート機能は切ったはずなのに。呼吸の音が鮮明にきこえ始め、目が覚めようとしているのだと志村は理解することができた。うすぼんやりとする頭がミヨと赤子を思い出し、次いで足立主任を思い出す。戻って来ただろうか。

 天井はいつもと変わらず、クリーム色で素っ気ない。仰向けから左へ寝返りを打ち、どうにか起き上がる。下ろした髪からトリートメントが香った。いつもとは違う、すこし強い香料に鼻の奥が痛む。携帯にはいくつかのアプリから通知が届いていた。

 恋人からのメッセージにだけ返信を済ませ、スウェットを脱ぐ。出勤時と比べむくんでいることが分かる太腿を撫で、白衣へと更衣を済ませた。肩甲骨を覆うほど長い髪は一本に縛る。志村は日勤や夜勤の始まりに髪をお団子状にまとめているが、仮眠後は決まって一本縛りだった。

 使用したシーツ類をまとめ、それらを抱えた状態で仮眠室を出る。


「あ、先に休んでました」

「はーい、おかえりなさーい」


 パソコン越しの足立と目が合った。足立は記録を打ち込んでいるのか、軽快なタイピング音がきこえる。志村が話しをしようとする前に、足立が続けて口を開いた。


「ミヨちゃんのモヒのことなんだけどさ。今毎時五とかでいってるじゃない?」

「あれ? 私送りの毎時三でもらいました」

「あれ、志村さんじゃないんだ? もう上限まで使ってる状態なんだけどさ、それでもずっと苦しいって言ってるし、先生に連絡しようと思うんだけどいい?」


 そう言いながら足立はPHSを操作する。返事を待たず耳にPHSを当てた姿を見て、志村はリネン庫にシーツを片付けた。時刻は日付を跨ぎ、病棟全体にいやな静けさが広がっている。当直医に対して親し気に話す足立の声は、どこか諦めのようなものが漂っていた。

 足立の向かいに座り、その通話が終わるのを待つ。鎮痛だけではなく、鎮静も考慮しないといけないのではないか。そんなことをぼんやりと思いながら、くるくると動く丸椅子に座り足立の電話が終わるのを待つ。ミヨのカルテから、看護記録を開く。誰が、何時に、どのような内容で、何をしたのか。時系列に沿い、正しく情報を残すために。


「――はい、すいませんありがとうございます。失礼します」


 一拍置き、PHSを胸ポケットにしまった足立がため息を吐いた。彼女が思っていた通りの指示が出ない時、これ見よがしにする大きな大きなため息だった。


「なんか言ってました? 上限のこととか、レスキューの指示とか……」

「ぜんっぜん。よその病院の当直だからなんっにも話にならないわ」


 その会話が皮切りとなり、当直医の口調が気に入らないだの、ミヨの苦しさが可哀想でならないだのと、足立の中にあった不満が濁流のように志村に向けられる。当たり障りのない相槌を挟みながら、当直医からの指示を記録に記載していく。

 要約すれば、既にモルヒネは上限量の投与となっているため主治医との相談が必要。外部の当直医のみでドーズ変更をすることは、夜間帯の安全管理の観点からも責任を追う事が難しい。明日の引継ぎまではレスキューのみで対応するように、とのことらしい。記録の最後に、”以上、夜勤リーダーが当直医へ確認した“と一言添え、看護記録を閉じる。

 他のスタッフが自分の担当患者に対して行ったことについて記録をすることは、まわりまわって自分自身を守ることにつながる。足立は医師や患者との些細なトラブルが絶えないからこそ、より神経質に記録を残しておく必要があった。


「まあでも、いったんいいわ。休憩いってくる」

「あ。はーい。野尻さんたちも休憩いけてます?」


 荷物をまとめる足立から視線を外し、廊下に面したカウンター席に座る野尻に声をかける。それぞれ食事を済ませたのか、空のコンビニ弁当のゴミをそのままに携帯をいじっている野尻が振り返った。


「ちゃんと入ってますよぉ。三十分ずれで入ったので、一時半になったら私が入ります」

「はーい。今日足立主任側大変そうですね」


 まるい、という言葉が似合う野尻は、小さな目をより細めて優しく話す。袖から覗くむっちりとした二の腕が、動くとゆらゆらと揺れた。


「体交の人たちが皆揃って便が出てたから、ぜんっぜん進まなくて」

「あー……。そっか、そっち九人くらいいますもんね」

「そうそう。呼吸器ついてる人も多いから、主任さんもぜんぜん詰所戻れなくってねぇ。また井筒さんだ、行ってくる」

「あ、すみません、ありがとうございます」


 メヌエットが詰所に鳴り響く。これでもう四回連続よ、と吐き出すように野尻が言った。ナースコールを切ったその手で、井筒のカルテを開く。彼は入院して半年ほどが経過した透析患者だった。慢性腎不全であり、透析を回さなくては生命活動を維持することができない。

 一日に摂取できる飲水量の制限もあるけれど、井筒は飲水制限の必要性を理解できていない患者だった。看護師に愚痴を言ったかと思えば激高し、主治医を巻き込んで飲水制限を止め、飲水量の確認のみに指示を変更させているらしい。指示変更になった日付を確認し、看護記録を開く。

 その日担当は高木だった。井筒の訴えが書かれているが、その文言を見るだけで口調が思い浮かんでしまう。自分は透析をしているがどこも悪くない、喉が渇くのに誰が飲水量を決めているのか、主治医を連れてこい、相談させろ。そうした言葉が書かれた後に、主治医と本人が相談の後飲水量確認のみに指示変更となる、と締められていた。

 詰所の方へ戻って来た野尻の手には、井筒が愛用するマグカップが握られている。


「まだ一時でしょ? もう千三百くらい飲んでる。元々六百とかよ?」


 呆れ混じりの野尻に、志村はどう答えてよいか分からず返事をしないままで笑みを浮かべた。カルテをだらだらと眺めているが、起床後にまだぼんやりとする頭では内容が入ってこない。ズボンのポケットから出した携帯をいじる。

 フォロワー達の呟きを流し読みし、ふと志村はあの赤子を思い出した。今もなお呻吟は詰所に届いているけれど、不思議とその赤子の存在が抜け落ちてしまっているようだった。もしかしたら赤子の親を探すこともできるのではないか。両手で携帯をいじり、赤ちゃん、赤ん坊、赤子、など志村は考え得る単語を検索にかけていく。

 無数に現れるマタニティアカウントやインプレッション目的のアカウントなどをくぐり抜け、いくつかの気になったアカウントをブックマークする。アカウントにとび、フォロー欄やいいね欄を細かく見ていく中、あるユーザーのアイコンを見た志村の手が止まった。


「野尻さん見てください、これ」


 赤子の親らしいアカウントは、つい一時間前にも呟いていた。

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