6w1h1r ③

 返答もなく、高木は日勤業務を終わらせるべくパソコンへ向き直る。志村もまた、ラウンドの記録を書くために立ち上げた電子カルテに向き合った。記入したバイタルサインが自動で折れ線グラフへと変わる。ミヨのバイタルは安定しているものの、既にいつ何があってもおかしくはない状況だった。

 誰に向けているでもなく、身体の内側が変容していく痛みや苦しさに耐え切れずに漏れ出る呻吟が、たった数分の訪室でも耳に残っている。ただその呻吟はミヨからではなく、見覚えのない赤子から発せられていた。ときおりひどく明瞭に「苦しい」「気持ち悪い」と、赤子は泣いていた。

 人から人が産まれるという壮絶な経膣分娩の中子宮から現れる、血で薄汚れたただ泣くことしかできない脆弱な存在。うすい肌は血色の良さに溢れていた。生後数日程と推察される赤子が、酸素マスクを装着したミヨの足元に寝たまま唸る。志村はその事を記録に書くでもなく、心電図モニターの鳴りやまないアラームを消した。


 そこからは普段通り、いつもの夜勤と変わらないルーティン業務が進んでいく。食前薬を配薬し、血糖測定を行い、定期のインスリンを皮下注射する。目を離すことができない患者を車いすに乗せロビーへと連れ出す。食事を介助し、その合間に食後薬を配薬して歩く。下膳と共に。歯磨きをしない患者に声をかけるが、きまって同じ患者が、同じようにおどける姿に、笑顔の下でため息を吐く。

 食事と歯磨き等の口腔ケアが一段落ついてからが、また少し厄介だった。寝たきりの患者の体位変換を行いながら、気管切開をしている患者や痰の分泌が多い患者の吸引処置を進めていく。十九時を回り、長針は真下へと手を伸ばしていた。


 四十余人の患者を等分しているとはいえ、ただ処置を行うだけでは済まないのが、この仕事の嫌なところでもある。連打されるナースコールに隠されたセンサーマットのアラートであるとか、訪室すれば通りすがりに「取って」「頭下げて」「布団」といった単語での指示を受けるとか。そうした患者側の態度に、少しずつではあるけれど疲労は溜まっていく。

 志村、足立主任と共に夜勤勤務を行う介護士の舘と野尻も、オムツ交換を進める最中に何度も手を止めてナースコールを取っていた。それでも鳴り止まないナースコールを放って、志村は詰所へと戻った。彼女の胸ポケットにしまったPHSは断続的に震え、患者の声を届ける。

 けれど、志村はすでに就寝前の服用を定められている薬の配薬を終え、今しなければならないことは済ませていたせいで患者のもとへ行く必要性を感じられないまま。時刻は二十時半に差し掛かり、消灯まであと三十分。高木以外の日勤者は全員帰宅したようだけれど、彼女はまだ明日の転院準備を進めていた。志村はため息だとばれないよう、静かに重たく息を吐き出して椅子に座る。

 片耳に装着したイヤホンからはガランドが流れる。言葉遊びが巡り、ぐわりと頭を揺さぶられる感覚。それが眠気のせいだと気が付いたときにはガランドの再生は止まり、高木が志村を見て微笑んでいた。


「やっと終わったから帰るね」


 これが戦利品と言いたそうに、高木は志村との間に箱を一つ置く。生食シリンジの空箱には大きな封筒が二つと、生体検査データが入ったCD-Rが入れられていた。封筒には“担当スタッフ様”とだけ宛先に書かれているけれど、ミヨがどこへ転院するのかはこの封筒からも知ることができない。

 けれどそれは些細なことだった。きっと診療情報提供書や看護情報提供書が入っているだろう封筒を見て、志村は高木に笑いかける。


「転院準備大変ですよね」

「ほんとにねー。もう消灯になっちゃうし。志村さんの仮眠前にぎりぎり帰れることになったから良かったけど」

「寝れるか分かんないですよ、今日。ずーっとミヨちゃんと、ミヨちゃんとこにいる赤ん坊が苦しい~助けて~って叫んだり呻吟したりしてて。二人で共鳴してんのかって感じです」


 耳に残る特有の呻吟を思い出し、疲れた笑みが志村に浮かんだ。高木も嫌そうな顔をして「モニターも録画もあるし、扉閉めちゃえば?」と笑う。まだかすかに聞こえるその苦悶を、私たちは簡単に閉じ込めてしまことができる。本人の声が聴こえなくなることで、よりはっきりと明瞭に、心電図モニターは彼女の不調を伝えてくるからだ。

 彼女の脈拍、波形、呼吸回数に酸素飽和度。三時間ごとに自動測定される血圧は、彼女のベッドサイドから詰所へと連動し、その値を示す。声を出すだけならば心電図波形にも大きな乱れは現れない。高木の言う通り扉を閉めてしまっても良かったけれど、志村はその提案を笑って誤魔化した。


「ま、全然モヒも効いてなさそうだから、ちょっと様子見て先生にコールかなって気持ちです」

「そうだね、それしか私たちにできないしね」

「そうなんですよね。……したら私仮眠入るので、気を付けて帰ってください」

「お疲れ様。夜勤がんばってね」


 伸びをしながら詰所を出ていく高木を見送る。ちょうど時刻は二十一時になっており、志村は廊下を消灯し、詰所の電気も一部消灯した。介護福祉士二人と足立主任はまだ詰所に戻ってくる気配はない。

 止まったはずのガランドは何回目か分からない再生を続ける。キャスター付きの椅子でくるくると回ることにも少し飽きてしまった。看護記録が少しだけ残っているけれど、どうしてか、今日は普段よりも強い眠気に襲われている。あれほど耳障りだと感じていたあの呻吟すら、どうしてか、突然に眠気を増強させた。

 ロッカーからかばんを出し、心電図モニターが並ぶ壁際に設置された仮眠室に入り、扉を閉める。三畳ほどしかないこの部屋にはベッドとオーバーテーブルが一台、丸椅子が一つ置かれているだけ。オーバーテーブルに用意されていたシーツと枕、タオルケットでベッドを整える。

 まっさらなナース服を脱ぎ、着慣れたくたくたのスウェットに袖と足を通した。イヤホンをケースにしまい、ようやく耳に平穏が訪れる。まだ主任たちは戻ってきていないようで、何もなく、ただ静かでゆるやかな時間の流れだけがあった。

 ベッドに寝転べば鮮明に思い出される、ミヨと赤子の表情と声とが。それらを自分の中から押し出すように、長くゆっくりと息を吐く。吐いたと同時にゆっくりと目を閉じる。ゆっくりとあの声を自身から遠ざけるための呼吸を繰り返していると、瞼同士が重たく融合するような感覚が生まれた。志村はそれが、眠りに身を任せるきっかけの状態だと理解していた。

 そうして扉を閉めることと同じように、視界も意識もゆっくりと閉じる。寝ることで、何もかもを自分の中から取り出して、そっと一人閉じこもることさえできてしまう。すぐに志村は寝息を立てた。規則正しく、アラームが鳴ることもなく。

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