6w1h1r ②

「明日転院なんですか?」

「そう、朝六時か八時くらいに。きっと日勤が来てからにはなると思うんだけど、いつもより大変かもしれないね」


 三連休明けの月曜日。午後二時半を回った病棟は鳴りやまないナースコールに右往左往するスタッフの足音や、認知症患者の叫び声が響いていた。夜勤を共にする主任看護師である足立の隣に座り、志村は患者情報が書かれたワークシートを印刷する。足立は、転院時間がねぇ、と呟いた。

 二チームに分かれそれぞれが二十数人の夜間状況に責任を持つ。転院の話が出ていたのは五一八号に入る田中ミヨという患者だった。悪性リンパ腫の進行により彼女の左頸部には大きな腫瘍があった。じょじょに膨らむ腫瘍は彼女の内頚から口腔内を強く圧迫し、開口障害と発語の困難さを与えていた。

 電子カルテ上の掲示板には、明日早朝に転院予定があることが示されている。それも救急車を利用した転院ではなく、民間の介護タクシーを利用する、と。そもそも看取り目的の入院として、すでにいつ命が落ちてもおかしくない状況下にあるにもかかわらず、転院。不思議な指示を眺めながら、五〇一号からの患者情報と看護指示をさらう。

 血糖測定が二人、インスリンの定期投与とスケール対応。二〇時と二十二時の抗生剤投与と補液交換。熱発者の有無、新たな指示変更等をワークシートに記載していく。日勤者が今夕から明日の昼までの薬詰めをしている横で、ラウンド前の物品準備を始める。ある程度ルーティンになった夜勤の流れを反芻しながら。


「ミヨちゃんの転院って、ご家族とか本人から希望あったんですかね」

「なんかでも前からちょっと話に上がってたよねぇ。でもモヒ使ってなんとかコントロールしてる状況だし、これ以上やりようないと思うんだけど」

「やー、ですよねぇ」


 夜勤までの準備を一通り終え、人工呼吸器を接続している患者の部屋に備えられたモニターを眺める。人権団体にみられてしまったら強く抗議されそうだなと入職の時から感じているけれど、すでに当たり前の風景になっていた。もぞもぞと動くモニター越しの患者、ただ黙ったまま酸素送気され生かされている姿。

 日勤スタッフからの申し送りを聞くリーダーの隣で、同じように内容を聴く。食事でむせていたとか、つじつまの合わない発言があるだとか。そうした、日常の中の些細な違和感を共有する。志村美穂として居た気持ちが、申し送りが迫るにつれて病棟看護師の志村に変わっていく。

 何度も鳴るナースコール、響くメヌエットを誰も気にしない。同じ名前が何度も表示され、「さっき行ったばっかりなんだけど」などのボヤキと、それに対する同情にも近い笑いが廊下で響いた。遠い病室からの大声が詰所まで届くのだから、高齢者とはいえ侮れない体力がある。


「それじゃ送りまーす。二月十日土曜日、現患数四十八人です――」


 全体の申し送りの後に、チームごとの申し送りが始まった。先程聴いていたような些細だが重要な情報以外にも、看護記録には記載するほどではない小さなできごとが送られていく。補液の流量や、排便回数。化学療法中の患者の訴えなど。そうした情報をかいつまんでワークシートに記載した。


「そうだ、ミヨちゃんなんですけど」

「あ、なんか転院するってカルテで見ました」


 日勤でチームリーダーをしていた高木が田中ミヨのカルテを開き、手元に置いていた転院に必要な書類の一部を出す。


「全然整理も終わってなくてさー……。今日急遽決まったんだよね」

「え、今日? 昨日まで病状説明の予定入ってなかったのに?」

「そうなの。ただ先生が急に転院を決めて、受け入れ先も見つかってって感じで。しかも時間が結構厳しくてさ、ぎりぎり日勤で連れて行けるかなとは思うんだけど」

「いやぁ……夜勤で、ってなりそうな時間帯じゃないです?」

「そうだよね……。必要な書類とか、退院の準備とかは全部やっていくから、朝だけお願いするね」

「はい」


 受け入れ先は見つかっていると話すけれど、医師カルテにも掲示板システムにも病院名は記載されていない。曖昧な転院時間と介護タクシーに乗る事だけが、田中ミヨが転院するという事実を示す。


「急に転院決まるなんて日勤大変ですよね」

「大変なんてもんじゃないからねー。後見人に連絡しても繋がらないし、先生も転院決めた後急用で帰っちゃうし」


 深く重たいため息を吐く高木に同情しつつ、夜勤のラウンドを開始する。夕食までは一時間半。日勤者と人工呼吸器の接続や設定値のダブルチェックをこなし、血圧や検温を進める。気管切開後であり言葉を話すことができない患者が必死に手振りをするけれど、何を伝えようとしているかまでは読み取れず、愛想笑いで部屋を出た。

 にこりと笑い、聞こえていないだろうけれど何をするでも必ず細やかな声かけをして、小さな病状の変化をともに喜ぶ。病に罹るだけで身をすり減らす中、それも長期療養を目的とした病院での入院だ。制限下の面会以外で患者がかかわるのは医療者だけ。


 志村にとってその時間は苦痛ではなかった。けれど、処置の合間に流れ続けるナースコールと、ナースコールには乗らない患者からの訴えや要望が、行いたい作業の妨げとなることがストレスの一つとなっていた。

 夕食時間前に病棟のラウンドを済ませ、詰所へと戻る。十七時半に差し掛かろうとしているけれど、未だ日勤者は帰ることができずにキーボードを叩いていた。ここ最近の日勤は定時退勤が続いていたこともあり、皆疲労の色が滲んでいる。


「高木さん、そういえばミヨちゃんの所にいた赤ん坊ってどこの子ですか?」


 カルテを立ち上げながらそう話した志村を、高木が振り返る。その勢いに驚き、ぱっと目線が合った。何かを言いたそうに口を開いた高木が、唾を飲み込む。そしてすぐにいつもの調子に戻り、高木が笑顔を見せる。マスクをしていても見える満面の笑みだ。

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