メヌエットが鳴る
6w1h1r ①
メヌエットが鳴る。ポップな電子音に落とし込まれたその楽曲は、他にきこえる音と比べると耳にやさしい。比較的ゆったりとしたテンポで、私たちを無作為に呼ぶ。その無作為さが苦手で、自分の担当以外の場所から鳴った時には無視してしまいたくなってしまう。
数か所から連続で鳴り響くメヌエットは、着信を取るごとにリピートされる。四分音符から連続した八分音符の流れが、ずっと耳に残っていた。時間経過で重さを増す足枷がようやく外れた。空は青い、嫌になるほど。
□
夜勤が終了した日を、明けという。昨日からの連続した勤務がようやく終わり、解放される朝の時間。この仕事に理解のない人からは明けとはつまり休みである、なんて等号でつながらない理論をもってこられることもある。
仕事を終えて、血糖値も低くなりぼんやりとする頭と、枷が外れたとは言え重たい足を引きずり、どうにかこうにか帰宅する。季節柄道は白く埋まって、隆起や轍が至るところに点在していた。その悪路さに、最後の最後まで体力を消耗させられる。
これで帰宅し眠ることができるなら良いのだけれど、玄関で靴を脱いだところで重たい息を吐き出した。シャワーを浴びて、着替えて、化粧をして。今が十時頃だから、十一時半までに家を出られたら、時間に余裕があるだろう。ソファの上に荷物を置き、髪を解きながら次の予定を組み立てていく。
一度でも足を止めてしまうと動けなくなってしまいそうで、流れるように浴室へと入り、熱いシャワーを浴びた。どうせならこのまま湯船に浸かって、寝てしまいたい。そんな衝動に襲われながら、ふだんと同じくらい丁寧に、けれど急いで全身を洗っていく。
痰を取り、糞尿を取り、患者の身体や私物に触り、言葉を交わした。日勤者から受け取ったPHSを使い、パソコンに触れた。極力患者に対応するときにはサージカル手袋を着用し続けるように意識はしているが、処置後に外したまま関わることも少なくない。
PPEを装着する。アルコールによる擦式消毒を都度行う。詰所に戻れば石鹸手洗いを行う。そうしたことを行ってなお、仕事が終わると汚れて薄黒くなってしまっているような感覚に囚われた。
少しでも気を抜くと遠のきそうな意識を必死につなぎ止め、何とか全身を洗い終える。タオルドライをし、ここから長く続くドライヤーの時間を考え、ふうとため息が漏れ出た。ヘアミルクを毛先から髪の内側につける。夏風に揺れるカーテンのように、髪の毛束が温風にあおられる。
ここから髪が乾くまで三十分弱か。きっとシャワーを十五分程度で上がっているだろうから、まだ十時半にはなっていないはず。勤務中にきいていた音が帰ってくる。
耳に残るメヌエットが波紋のように広がり、二重三重と音が響いていく。そのナースコールを取る事なんてできず、ただメヌエットが途切れるのを待つだけ。
ドライヤーの音を越えて、それはガンガンと鳴る。今日の夜勤は大変だったのかもしれない、自分の中ではいつもと変わらないように感じているけれど、もしかすると。転倒も起こらず、急な体調不良に見舞われた患者もいなかった。いなかった。ほんとうに? 髪を乾かすために動かしていた手が止まる。
髪の一束だけが温風にあおられ、楽しそうに舞っていた。
ぐるりと目が回るような感覚。手から滑ったドライヤーが洗面台とぶつかり、大きな音を立てる。ゴオと叫ぶドライヤーの音が、寝たきり患者の洗髪を想起させた。指にかかる、皮脂をまとった髪の毛、病棟用の泡で出るシャンプー、ドライヤーで舞い上がる落屑とホコリと、シャンプーのやさしいにおい。
メヌエットが流れた。胸ポケットが何度も震える。何度も、何度も。断続的に、連続的に、無作為に看護師や介護福祉士を抽出する。乾いた髪が指を通り、患者がにっこりと笑った。
「すっきりしましたね」
言葉が弾けた。笑顔を返した先に患者はいない。数本の髪が落ちている床は、まぎれもなく自宅の洗面所。私の手から消えたドライヤーは、洗面台でゴオと鳴いたままだ。
貧血? まさか。ヘモグロビンが正常値だということは、この間の健康診断で確認済みだ。起立性低血圧? ずっと立っていたのだから、その可能性もきっと低い。入浴直後ならばまだしも、私はずっと動き続けていた。
いままでこなしてきた夜勤のどれよりも、疲労は少なかった自覚がある。昨日ほんとうに夜勤をしていたのか。ゆるがない事実としてあるはずのシフトを、信用することができない。日付や曜日の感覚はとうに無くなっていた。今日が何曜日で、何日なのかを思い返そうとすると、頭が鈍く痛んだ。
どうにか立ち上がりドライヤーを止める。鈍く広がる痛みの底、メヌエットはいつもの調子で鳴り響いていた。
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