旧校舎の天使 ⑦
急に冷え込み、冬将軍の訪れを感じさせる十一月の十三日。外では申し訳程度にちらついた雪が、冬の到来を告げる。雨曇りよりは気持ちの軽い、白銀色の雲が一面を覆っていた。窓についた雪はすぐに水分へと変わり、いくつか集まったと思えば自重に耐え切れず滑り落ちていく。
雪が降る日は、景色全体に灰色を溶かしたように色調が変わる。流れ落ちた水滴の先、天使はやはりフェンスの奥にいるようだった。放課を告げるチャイムが鳴る。ピンで弾かれたように僕は急いで教室を出た。廊下を走る僕を誰も見ない。咎めるような教師もいない。外の寒さすら感じない。
壊れたガラス戸の生徒玄関、中央階段の埃が舞う、息が切れ、空気と一緒に吸い込んだ埃で強くむせこむ。屋上行きの扉はあの日と変わらずわずかに隙間が空いている。息を一つ吐く。
「こんにちは」
「――久しぶり」
フェンスの奥にいる天使は、もうフェンスを乗り越えることは無い。まるでそこに障害物はないかのように、内側へと戻ってくる。静かに息を吐く。天使の周りには数羽のハクセキレイが居座り、忙しなさそうに尾羽を動かしていた。
「今日かぁ、俺の期限」
「期限?」
「そ、消費期限」
向かい合う天使が眉尻を下げる。消費期限、そうか、たしかに。天使のもとにいた鳥の一羽が、僕の足元へと羽を広げながら近寄ってくる。
「僕は、死って消費期限だけじゃなくて、賞味期限もあると思うんです」
鳥から天使へと目線を戻す。天使は不思議そうな、切なそうな、苦しそうにも見える表情で唇を結んだ。天使の心を軽くできるとは思えない。天使のことを助けることは、もうできないのだから。
「誰かの死を可哀想とか、悲しい事件だったとかいう言葉で処理をして、自分自身の辛さとか苦しさを表に出すのも、限界があると思うんです。死んだ人との関係性が遠ざかれば遠ざかるほど、人が死んだっていうのは悲しみを生むだけのコンテンツでしかないって」
「……コンテンツ」
「クラスメイトからしたら、あなたの死を哀しんでいられる期限が短かっただけ。それくらいの存在だったんだろうと思います」
天使の存在がなかった黒板のメッセージ。申し訳程度に用意された簡素な花瓶と一輪の花。きっと思ったよりも早く、彼らの中から天使の存在はなかったことになったのだろう。四季が移り変わるほど自然に、耳障りなサイレンもいずれ聞き慣れてしまうように、花瓶が置かれた動かない机があったなら、それは日常に溶け込んでしまうのだ。
「味がする間は悲しむことや悼むことがあるかもしれない。でも、最初から味のしない死もある。――天使が死んだあとみたいに」
喉が焼ききれそうな感覚。烈火に晒されるがごとく、じりじりと粘膜が燃えるようだった。それでも、天使が望む望まないに関わらず、僕は真実だけを伝える必要がある。
「成仏する時間には、個人差があるっていいましたよね」
「うん」
「死んだことは完全に忘れられないと思うんです、命日ってものがあるから」
天使が小さく頷く。
「死んだらそこでおしまい。肉体はなくなって、火葬して骨を潰して墓にしまわれる。けど、天使みたいに残る人もいる」
長い瞬きをして、天使はまた僕を見た。深く、ゆっくりと、僕は息を吐き出す。飲んだつばが燃える喉に痛みを与えた。
「そうした人を、僕はこの子たちを使って見つけるんです」
ハクセキレイが待ってましたと言わんばかりに、楽しそうな声音で鳴く。彼自身の中で何か納得できたのか、数回頷きを繰り返した。
「消費期限って言い方は難しいけど、でも、成仏するまでの時間を魂として消費しているって天使が思っているんだったら、やっぱり、今日がその期限なんだと思います」
それに、と言葉を続ける。
「自分が間違いなく死んでいるんだって、もう天使は理解していると思うから」
「……そうだね」
眉尻を下げたまま、天使が力なく笑う。今にも泣きだしてしまいそうな表情を見せる天使に、胸が痛まないわけではない。けれどそれが僕に与えられた至上命令であり、存在意義でもあった。
月の光はこれから生まれるものにとっては希望であり、力の根源であるのだろう。満月が近づくにつれてその力は徐々に高まり、満月とともに力強く放出されていく。では、根源である力とはどこから来るのか。
「あの日の月は、どうでした?」
一瞬目を開いた天使が、そうだね、と目を伏せる。ためらいの後に「嫌な気持ちはしなかった」と口の端を上げて言った。
「そうだろうなって思ってました」
「え?」
「あの月は、死んだあなたそのものを歓迎していたので」
月には様々な霊魂が集まる。かの人は滞りなく霊魂を回収するために、死者に月光を与える。銀に光る月の聖性は言葉にすることも難しいけれど、それが素晴らしいものであると誰もが口を揃えて話す。この天使ももれず、月光に心を奪われ、同時にここで存在し続けるだけの力を月に戻してしまった。
「だから、そっか。真魚君は何回も、行くか帰るかって選択をくれてたんだ」
この鳥たちも、そうか。と、優しく天使が笑う。彼の中で全てがつながってしまったようだった。天使がくるりと身をかえし、フェンスをすりぬけて校舎の端へ立つ。それを全力で止める真似は、もうしない。もう、できない。
同じように僕もその隣へと進み、一緒に、遠い様で近い地面を見下ろす。冷たい雪がわずかに勢いを増した。
「あの辺なんだ、おちたところ」
天使が指さした先は、うっすらと雪が降り積もり、何も見えはしない。
「どうせ消えるなら、今度は最後まで意識保ちたいね」
「えっ?」
笑顔で落ちていく天使を追い、その腕をつかむ。二度死ぬことはないけれど、それでも。
「きれいな羽だね」
涙ぐむ彼を、僕は抱きしめた。
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