旧校舎の天使 ⑥

「どうしました?」


 その問い掛けにも、やはり天使は答えない。ただ、何かに怯えるような仕草にも受け取ることができ、僕はまた天使の手を握り返した。ゆっくりと六段目に足をかけた天使を確認し、僕は一段先を進む。

 十三段目に足をかけた天使がまた止まるけれど、今度は数秒おいた後に最上段を上り終えた。銀の海は深く、目の前にある屋上の扉を開けたなら、その奔流に押し流されてしまいそうだ。けれど天使が行くと決めたのなら、僕は。

 壊れたドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。ゆっくりと扉を引く。だくだくと流れる銀の月光に、天使が流されてしまわないよう注意をしながら。僕のからだを銀に染め上げ、次に天使も同様に銀を浴びる。寄せた銀の波が、また屋上へ戻っていく。天使は呆けたように、扉の奥に見える半月を見つめていた。


 波の中を、手を握ったまま進む。あの日天使が乗り越えていたフェンスの奥、握りしめることができるのではないかと錯覚するほど近づいた下弦の半月。その光は眩いながらも強さはなく、ただ僕と天使を静かに迎え入れていた。

 立ち止まった僕の手からするりと天使は抜け出す。月に引き寄せられる波のように、ゆっくりと、けれど確実に天使は月へと向かう。境界として立つフェンスに指をかける後ろ姿を見て、僕も天使に続いて歩き出した。

 一歩一歩進むたびに、月光の波が引いていく。今日、あの月に歓迎されているのは天使だけ。天使と繋がっていた左手がじわりと熱を取り戻し、彼のつめたさをもう思い出すことができない。


「天使」


 彫像のように動かないまま、天使はフェンス越しの月を見る。瞳いっぱいにうつる下弦の美しさと神秘さに勝るものは、この場にない。御遣いなんてもの、銀の聖性を前にしてしまえば無価値でしかないのだ。

 夜目の利かないハクセキレイが数羽、天使の近くを羽搏はばたく。月光の波は完全に引き、いつものコンクリートが現れた。

 これは内緒の話なんですけどね。すでに届いていないだろう言葉を、彼の背中になげかける。


「今ならまだ、もう少しだけここにいられますよ」


 あと数分でも月光を浴びたなら、天使の進むべき道は一つしかなくなってしまう。だけど、今なら、まだ。月を見上げる天使の横顔がいやに眩しい。差し伸ばそうと動かした手を、きつく握りしめた。

 間違えようとしてはいけない。そう、声が聴こえる。ずきりと痛む頭が、間違えてはならないと繰り返した。鳥たちはまだ天使の周りから離れようとしない。天使がもうこの場から動こうとはしないだろうこと、天使を助けるための僕の言葉が届かなくなってしまっているだろうこと。それらを理解していたからこそ、伸ばしたかった手があった。

 天使を見つけた月は満足したようで、ゆっくりとその光が弱くなる。かの人に見つかってしまった。


「これが最後です。このままいきますか? それとも、一緒に戻りますか?」


 ゆっくりと僕を見た天使と、ようやく目が合う。少し伏し目になって僕を見る天使の目には、今にも零れそうな涙が潤んでいた。けれど満足そうに天使が笑う。細められた目の端から涙が落ちる。筋を作って、いくつも、いくつも。

 天使を見つめることしかできない状況で、喉の奥が焼けるような感覚に襲われる。彼の涙の理由は聞いたところで理解することなどできないだろうから、僕はもう一度だけ天使に尋ねる。


「かえります? それとも、いきます?」


 涙を拭いた彼は、「そうだなぁ」とまた月を見つめた。初めて彼と出会った時のような優しそうな、穏やかな笑みで。天使が何を選択したとしても、僕はただ肯定し、その背中を支えるだけ。のどの痛みだけがじりじりと続く。


「帰りたいけど、行くしかないよね」

「もう、そうですね」

「うん」


 身を翻し、天使はフェンスに寄り掛かる。鈍い音が夜の屋上に響き、驚いた鳥たちが静かに遠ざかった。ゆっくりと身を沈ませる天使の隣に腰掛ける。同じようにフェンスに背中を預け、あぐらをかいた。

 はぁ、と息を吐き出した天使は少し満足そうで、月の見えない夜空を見上げる。名前も星座も分からない星々が、頭上に散らばっていた。天使が僕を見る。僕もそんな天使を見返す。


「前に成仏には時間差があるって言ってたね、真魚君」

「はい」

「俺のそれは今日?」


 ふわりと風が舞う。やさしい風ですら、今は天使を連れ去ってしまうように感じられた。僕がいる限り、天使がいなくなってしまうことはないけれど、それくらい今の天使は不安定な存在だった。


「今日って、何日ですっけ」

「何日かな。俺はもう進んでないからなぁ」


 さらりと、天使が零す。


「すいません」

「新手の冗談かと思ったけど、違うんだ?」

「いや……まあ……はい」


 顔を隠すようにフードを引っ張りつつ、携帯の画面を確認する。


「令和五年の十一月四日なので、十三日、ですね」

「期限があるんだ?」

「まあ、見つかってしまったので」

「見つかっちゃったかぁ」


 天使が楽しそうにころころと笑う。満足そうな、すっきりとした表情に、僕が感じていた喉の痛みは消えていた。

 天使の時間が終わるまで、あと九日。


「九日後また来ますから、ちゃんといてくださいね」


 笑って頷いた天使の笑みが、ずっと消えない。

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