旧校舎の天使 ⑤
じっと地面を見つめるだけの天使を黙って待つ。落ち着かない様子で首元や唇に手を添わせては動きを止め、両の掌をすり合わせ、ようやく口を開いた。けれど言葉は出てこず、何かを言おうと数回口を開いては閉じてを繰り返す。
そこからは膠着状態だった。どれだけ待とうと天使からの言葉は出ない。僕はそれでも良かったが、彼を待っているだけではたった一つの進展すらないことは明白で、時間だけがいたずらに消費されてしまう。
天使はきっと何も話さない。ぐるぐると終わりのない思案を続けて、すでに分かっている答えには触れようとせずにずっと悩むだろう。触れてしまったら、その瞬間に壊れてしまうものがあると彼は気づいてしまっている。
「もう少し一緒に肝試ししましょう。ゴールはまた考えることにして」
僕が歩き出せば、親ガモを追う子ガモのように彼は着いて歩く。
三階は音楽室や技術室が並び、もぬけの殻となった図書室があった。銀の月明かりが室内を照らす。ライトを切っても問題が無さそうなほど月光は強く、目を奪われてしまう。顔を上げた天使は窓際へと歩を進め、全身に月光を受ける。
「……来た時はこんなに明るく感じなかったのにね」
「小さな半月でしたもんね」
「うん。これは、きれいだ」
天使の伸ばした手が、窓ガラスに置かれた。半月に手は届かないけれど、手中に収めようとしているように見える。
「そいえば、月って天使と関係があるって知ってました?」
横並びに月を見上げたまま、僕はそう、話し出す。天使は何も返さず、静かに僕に視線を向けた。
「遠い昔の人達って、月には霊力があるって考えていたらしいんですよ」
「霊力?」
「はい。毎日姿を変えて、満月なり新月なりで潮の干満まで支配する。満月が生で新月が死を映しているから、成長と衰退っていう生物の生育過程を象徴してるように捉えられていたんですって」
「へぇ……」
「月から力を受けて人は生まれて、死んだ時は月に帰ってくる。人間の生死と魂みたいなものは、月が管理してるんです」
「ただきれいなだけじゃないってことか、すごいね」
ネットで得た知識ですけど、と僕は小さく続ける。隣にいる天使には聞こえていただろうけれど、天使は月に視線を奪われたまま。月には霊魂があり、その霊魂は魔力を伴う。月を守る七大天使は、人間に月の秘密を話したことで堕天した。天使が浴びる月光にも、今や空想にも思われるだろうけれど、魔力が宿っている。
「行きますか? そろそろ」
「……そうだね」
最後まで名残惜しそうに月から目線を離さなかった天使は、僕に続いてゆっくりと図書室を後にする。誰に怒られるでもないけれど、天使は扉をしっかり閉めた。引き戸のレールに溜まった埃か、もしかすると錆びているのか、片手で閉めるには重たそうな音が鳴っていた。
月光は扉でせき止められ、さざ波のように寄せてくる残光はわずかのみ。深い海のような暗闇にいる僕を追ってきた天使に、その光は届かない。横を歩く天使を見上げるがライトの当たらない彼の表情を読み取ることは叶わなかった。
図書室からまっすぐ伸びる廊下を進む。なんとなく、天使に横顔を見られたくなくてフードを被った。天使は何も言わない。肝試しは息をひそめて続く。乾いた床にじゃり、と擦れた靴音が鳴った。
「……さっき、月きれいでしたね」
耐えかねた沈黙にそう言ってみるものの、返答はない。天使は知っているだろうか、誰が月に集まる霊魂を管理しているかを。僕たちはどの教室に入るでもなく、これまでのように天使の思い出話があるわけでもないまま、つづら折りのように西階段と中央階段を上り、残す階段は屋上へと続くものだけとなった。
わずかに開いた屋上の扉からは淡い光が漏れ出している。その光があれば十分であり、スマートフォンのライトを消す。天使の表情を覗き見ることはできなくなったけれど、彼もフードで隠された僕の表情を見ることはできない。互いにまっすぐ屋上へと続く、月明りに濡れた階段を見つめる。
天使は何も言わない。僕はこの階段を上ろうが下りようが、それが天使の選択であるならどちらでもよかった。天使がこの先、どこに向かいたいと考えているのかだけが、今の僕にとっては重大な要件だった。
「帰ります? それとも、行きます?」
僕は天使の方を見ないまま、そう、尋ねる。銀に光る先か、ぽっかりと口を開けた洞の先か。
まだ天使は何も言わない。横目で彼を伺えば、その視線は屋上へと注がれている。階下へと戻り生徒玄関を出て、この夜をなかったことにすることだってできる。けれど、天使はじっと屋上を見つめたまま。
「行きましょう」
天使の手を掴み、光る先へと進む。一段、また一段と上がると、階段にこぼれる銀の海は輝きを増していく。天使の冷たい手が、僕の手を強く握った。僕はそのたびに彼の手を握り返した。
五段目を上ろうとしたところで腕が後ろに引かれ、天使を振り返る。銀の光を一身に受ける彼の姿に、あの熾火に浮かぶ彼を思い出した。もしも、彼に豊かな白色の羽があったなら。もしも、彼が月の管理者の御使いだったなら。眩しい彼の姿に僕は目を細めた。
僕はどうやらことごとく、天使をその名の通りに捉えたいらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます