旧校舎の天使 ④

「体育館もさ、二つあるんだよ」


 生徒玄関の対極に位置する体育館前には、右手に通路がある。天使に促されるままにその道を進む。体育館の三分の一ほどの大きさの小屋のような空間があった。木とほこりのにおいが混ざり、鼻腔の奥がわずかにツンと痛む。


「剣道部が部活で使ってたんだ、ここ。あとは選んだ体育種目によってはここで卓球とかしてたんだよね」

「へぇ……そうなんですね」

「興味なさそ~。ま、でも俺は懐かしさでいっぱい。第二体育館だから、第二集合とかって言われたんだよな」


 第二体育館の奥へ歩いて行く天使。彼が歩くたびに埃が舞い上がり、それらがゆっくりと風に乗ってまた地に戻る。埃だらけの空気を目いっぱいに吸い込んでいるのか、彼は大きく両手を開いていた。天使という名前を意識してしまい、彼が羽を広げているようにも見えてしまう。

 広げた手を下ろし、天使が振り向いた。満足そうな表情で、「じゃ、上行こうか」と話す。体育準備室の前にある階段を上った先は、多目的教室が置かれているほか、三年生の教室が並んでいた。

 一階では饒舌に話していた天使は、何も言わずに進んでいく。スマートフォンのライトしか光源のない暗く静かな校舎を、二人のまばらな足音が彩る。旧校舎、廃墟。そう呼ばれるこの建物に、まだ役割があると伝えるように。

 三学年の教室は一から四組までがあり、天使の足は四組を通り過ぎ、三組の前で止まった。ライトで照らした三年三組の室名札には埃だらけの蜘蛛の巣が引っかかっている。教室の扉はすでに半分ほど開かれており、その先の真っ暗な室内を天使は見ていた。扉を開けるでもなく、廊下を進むでもなく、ただ固まっていた。


「花瓶?」


 天使の背中越しから室内にライトを当てると、一番前の中央の席に置かれた花瓶が見える。


「……花瓶だね」

「もしかして、ここですか?」


 自殺した生徒の教室って。そう言葉にしなくとも、天使は「うん」と頷いた。透明な筒状のガラスには、まだわずかに水が残っている。濁った水面に浮かぶ茶色の花が、生徒の死は遠い過去になっていることを明らかにしていた。

 整頓された埃だらけの机。花瓶に浮かぶ花が何かは分からないけれど、天使はただ優しくその花だったものを見ている。変わらず笑顔を湛えているが、下がった眉尻が痛々しく見ていられない。

 教室内はどこか心を沈ませる雰囲気が充満しているように感じられた。死人が出た教室が原因か、落ち込んだ様子の天使を見ていることが原因かは分からない。ライトの端、黒板に映った何かが視界に入る。


「……すご」


 中央に大きく“三年三組の友情は不滅!”と書かれた周りに、寄せ書きのようにメッセージがたくさん添えられていた。欠けたクラスメイトがいるとは思えない様子が、どのメッセージからも見て取れる。これから先の未来に向けた爽やかな明るさで溢れていた。

 たった三年しかない高校生活を旧校舎で過ごしきることができる喜び。クラスの強い結束を示す表象の記録。くまなくすべてを読んでなお、やはり自殺したクラスメイトに対する声は一つもない。この寄せ書きを書いた人間の中に天使もいて、天使は自死した生徒に思うところがあったのかもしれない。自死した生徒への思いは、無言の同調圧力を前に飲み込まれてしまったのかもしれない。


「仲のいいクラスだったんですね」


 そう声をかけることしかできなかった。落胆したような様子で、天使は力なく返事をする。


「仲は良かったと思うよ。こうやって、死んだ生徒のために花を生けてるんだし」

「人が死んだところで、こうした形式だったことすらできない人たち多いですからね」

「……真魚君、けっこう言い方強いね?」

「え。すいません」

「いや、それくらいがいいよ」


 ふわりと笑った天使の声音に、安堵の息を吐く。元気をなくした人間の励まし方を知らないせいで、またじりじりとした喉笛の痛みを感じてしまうところだった。


「もう行きますか?」

「そうだね、行こうか」


 朽ちた弔いをそのままに、天使を先頭にして教室を出る。じとりとした湿度とわずかな粘度を感じる空気が、互いの間に生まれていた。足を掴まれながら歩くような不快感に、深呼吸よりも深く長い息を吐き出す。

 天使は、何も話すことも、ころころと表情を変えることもないままに、ゆっくりと歩いていた。伏し目がちに俯いた表情からは、何を見て取ることもできない。あの枯れた花は、いったい誰が生けたのだろうか。亡くなった生徒を慕う人間がいたかもしれないが、死人は何を語ることもない。

 死人が見てきた世界は灯火を失った時点で終了し、それ以降の死人の印象は生者のみが口を揃えて形作ることができる。寄せ書きには死人がいたことを感じさせる内容など一つもなかった。まるですっぽりと記憶が抜けてしまっているように感じてしまう。


「消されたみたいでした、自殺した生徒」


 天使の歩みが止まる。顔は上げない。浅く、落ち着きのない呼吸を繰り返すだけの天使を見ることもなく、僕は進む。遅れてついてきた天使の歩みは、変わらず重たい。


「先輩、どうしますか」


 僕らの前には屋上を目指すための、生徒玄関から逃げ出すための、いつだってそこにある中央階段が居た。青白い顔をした天使が僕を見る。


「今ならまだ大丈夫です。まだ、引き返せます」


 天使が望まないのなら、僕もその選択を肯定したい。彼は引き結んだ口を解くこともできないままで、ずっと僕を睨む。自殺した生徒に対して勝手に語ろうとしたことが癪に障った可能性もゼロではないだろうが、僕にはそれが、必死に涙をこらえているように見えて仕方がなかった。

 だから僕は、その選択を天使に委ねることしかできない。天使が望む望まないに関わらず、天使がその選択を後悔してしまうことがないようにする必要があった。きっと天使も分かっているはずだ。そうでなければ、彼が僕をこの時間の旧校舎に誘うことなんてなかっただろう。


「僕は先輩の決断を尊重することしかできないです。――どうしたいですか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る