旧校舎の天使 ③
旧校舎から新校舎へ移設した理由の一つが、生徒の自殺だったと噂されている。あくまで噂ではあるけれど、実際に新校舎への移設の話が出た頃と同時期に一人の生徒が自殺したという事実があった。天使はそのことを話しているのだろう。
「幽霊なんていないですよ。死んだ人間も時間の差こそあれ、ちゃんと成仏するんですから」
「そうなんだ? 同級生も後輩もやっぱあそこにはおばけがいるんだって言うし、毎年一回くらいは話題になるんだけどね」
「時間の差があるだけですよ。もう成仏してるかもしれないじゃないですか」
僕のその言葉に、そうだねと天使が頷く。重たい雲の隙間からは少しずつ青空がのぞき始めた。黙ってしまった天使に気まずさを感じる。死人が成仏するための時間には個人差がある、など、どこの宗教観なのかと怪訝に思われてしまったかもしれない。
「真魚君さ」
「はい」
考えるような仕草をしていた天使が、目を細めてにこりと笑う。
「一緒にこの旧校舎でも探検しようよ。今日の午後九時、生徒玄関集合で」
「え。肝試しってことですか? ……見ず知らずの後輩と?」
「袖振り合うも他生の縁っていうじゃん。それに、俺のこと助けようとしてくれてたでしょ。見ず知らずほど遠くないよ、真魚君」
それじゃあ、また時間になったら会おうね。と手を振り、屋上を去る天使の背中を見送る。彼はいつも僕よりも先に下校していた。どうして天使も屋上にいるのか、いつから野鳥に餌やりをしているのか。帰り姿を見送る時になって、天使に訊きたいと思っていたことが浮かんでくる。
今や屋上に行くのは自分のためではなく、天使と二言三言交わすためとなっていた。放課後、十六時から十八時までの限られた二時間。僕一人だけしかいないと思っていた、この旧校舎の屋上に、僕以外の人がいたのだ。天使は、彼自身を語らない。だからこそ、彼の言葉で彼を知りたいと思ってしまう。
熾火に浮かんでいた彼が、希望に満ち満ちた朝日のように想えてならない。
□
閉塞感の強い灰色の雲は既にどこかへと消え、藍色の空には小さな半月が浮かんでいた。街灯に照らされる通学路を進む。駅から自宅へ帰る人の波に逆らい、改札を抜けて電車に乗り込む。登校のため制服で乗り込む通学とは違い、私服を身につけて学校へ向かうことの違和感に地に足のつかない感覚がした。
平静を装う胸中、学校へ向かうという事実に心臓が徐々に拍動を速める。昼間であるならばともかく、こんな夜に立ち入り禁止の旧校舎で。期末考査も終わった解放感の充足で、普段ならばしないようなことをしてしまっている。悪い子になってしまったようで、胸躍るような高揚感も生まれていた。
駅から学校までの道中は、急く気持ちに自然と歩みが速くなる。天使と会える高揚感のせいか、天使を待たせたくない焦りのせいかは分からない。旧校舎の校門をよじ登り、敷地内へ進む。よく見慣れた場所であるけれど、手入れもされていない、街灯も満足に届かない旧校舎は不気味だった。
ややひらけた生徒玄関前。薄明りのような月光に照らされて、彼はいた。昼間と変わらない制服姿で。足音に気が付いたのか、天使が人の好い笑みを浮かべて手を振る。
「お待たせしました」
「待ってないよ、俺も来たばっかりだから」
寒色の、銀色に光るような月光。照らされた彼が無機質に見えてしまうほど、彼は神秘的な風貌だった。彫像のような清廉さがある。
「着替えてから来たんだね。かっこいいパーカーじゃん」
「ありがとうございます……?」
無地のパーカーにデニムを着ただけの姿のどこにカッコよさを見出したのかが分からない。天使は声を上げて楽しそうに口角を上げた。やわらかな茶色の髪が揺れる。肩を揺らして笑う天使に手招きされるまま、真っ暗な生徒玄関へと進む。
「ライト持ってくるの忘れちゃったんだけど、真魚君なんか灯りつけれるのある?」
「スマホのライトならあります。ちょっと待ってくださいね」
ポケットから取り出したスマートフォンのライトを付ける。ぱっと明るくなった道の先は明かりが届かず、うすぼんやりとした黒に飲まれていた。
「一階は? 歩いたことあるの」
「掲示板見たりとかはありましたけど、でも別に、屋上に行こうとしてただけなので」
「まぁそっか。余程の物好きじゃないとこんなとこ見ないよね」
生徒玄関を先端にコの字型に造られた校舎を、天使と横並びになり進んでいく。空っぽになったガラス製の棚、光のない非常灯と火災報知器、どこから入って来たのか分からない枯葉。そんなものがいくつもあった。
天使はそうしたものが見えるたび、彼が見てきた景色を思い出しているようで、どこか寂しそうにも聞こえる声で思い出話を語ってくれた。今通り過ぎた茶道室は文化祭の時に入れてもらうと、風を気にしないで後夜祭の花火を楽しめるとか。弓道部の一年生が体育準備室から体育館までの廊下を使っていて、よく弓を鳴らしていたとか。
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