旧校舎の天使 ②

 フェンスをよじ登って安全な場へ戻って来た彼は、まだ楽しそうに笑っている。こちらとしては自死しようとしていたようにも見えた分、その態度に困惑してしまう。細められた目は長いまつ毛が添えられ、やわらかな印象を抱く。

 制服の襟元を直し彼は、今度はしっかり声を出して笑い始め、耐えきれないように高い背を屈めてしゃがみこんだ。慌てる僕をよそに彼は満足するまで笑いきり、「はぁ」と短く声を漏らす。死のうとしていたわけではないのか。その不思議な行動が心配で、彼と目線を合わせるために同じように身を屈める。


「あの……?」


 目線が合えば、また彼は笑いだす。そうしてひとしきり笑い終え、潤んだらしい目元を拭った。


「よく俺の名前分かったね」

「名前?」

「そう、俺、てんしっていうの」


 そう言い、彼もとい天使は微笑む。名を体現するようにやわらかく。立ちあがった天使は、あのフェンスの奥にいた時よりもちいさく見えた。彼のズボンの裾はうっすらと埃で汚れている。

 天使から差し出された手が、僕を立ち上がらせるためのものであることはすぐに分かり、その手を取った。指先までじんわりと暖かなその手が、僕の指を優しく包む。


「それで、君の名前は?」

類家るいけです」

「いや、下の名前」

「あ、まなといいます」


 天使が微笑むまま、「まな」と繰り返す。それはよく見てきた光景と被って感じられ、「真に魚で、まなです。類家は種類の類に家」と言いなれた説明を唱える。納得したように数回頷いた天使に絵になる人だな、などという薄い感想を抱いた。

 燃えるような夕焼けの光。どこからともなく流れてきた灰色がかった雲さえ、その強い光に染め上げられている。何もかもを燃やし尽くすことができるような、むしろ燃やし尽くした末の熾火のような美しさの中に天使は浮かんでいた。

 どこか物憂げにも見える微笑みが、天使の口元にはあった。その表情や、まだ僕の指先を優しく包んだままの彼の立ち姿がどうにも眩しすぎて、夕焼けのせいになればいいと思って目を閉じる。その光景を瞼の裏に閉じ込めるように、長い瞬きを一度だけ。

 目を開いてもそこには確かに天使が居て、少し困ったように眉尻を下げて僕を見ている。ようやく僕は天使から逃げるように手を解き、己の前で指を組んだ。天使は黙って僕を見つめているから、まとまらない頭で必死に次に発する言葉を考える。


「えー……っと、なんで、その、そっち側に?」


 きょとんとした顔をした天使が、僕の目線を追ってフェンスを見た。そうして合点がいったようで、小さく頷き、屈託ない笑みを浮かべる。


「飛び降りると思ったんだ?」

「いや、まあ、そりゃ……。普通そんな危ないところ行かないじゃないですか」


 自由に屋上へ行くことができるとはいえ、ここは地上五階の天井の上。フェンスを越えてしまえば、支えになるものは眼前になく、風が吹いてしまえば簡単に地上へと体が叩きつけられてしまう恐れすらある。

 自力で飛び降りるわけではないにしろ、何かしら追い込まれている状況ではないのかと勘ぐってしまう自分がいた。


「前からちょっと餌付けしてたハクセキレイがさ、遊びに来てくれるようになったんだよね。それで、今日も餌やりに来てただけだよ」


 僕の手から離れた天使の指が、彼が着る制服のポケットに滑る。出されたのはビニール袋に入った飼料のようなもの。


「これが?」

「そう、餌。まあ今日はもうやり終わったし、俺は帰るね」

「あ、はい」


 彼は小さく手を振った後、軽やかに屋上を後にする。彼が立っていたフェンスのその奥には、食べ残された飼料が小さく積まれていた。沈み出した夕日がその顔を隠すのは早く、既に時刻は十七時を越えようとしている。

 新校舎の教室を照らす明かりもまばらだ。携帯には友人からいくつかのメッセージが届いており、彼らも既に帰路に着いたことを知った。心を奪われ高揚するような、形容しがたい焦燥感が手元に残る。


 □


 翌日も翌々日も、放課後に旧校舎を見ると必ず天使はいた。さすがに雨の日にはいないように見えたけれど、それでも天使は旧校舎にいたのかもしれない。当時の掲示物がそのまま残った生徒玄関、薄汚れた廊下や、きっとそのまま放置されているであろう教室。

 そういえばいつもまっすぐ屋上に向かうばかりで、あの旧校舎の内側について知っていることはほとんどないな。天使と会ってからの一週間は、定期考査もあったために旧校舎へ足を踏み入れていなかった。期末試験の最終日、放課後の窓を雨粒が叩く。自然と足が向かったのは、天使と出会った旧校舎だった。

 やはり天使はいた。今日もまたフェンスの向こう側に立ち、小鳥に餌をやっているらしい。屋上にはまばらに水溜まりができており、雨のにおいが漂っている。重たい雲の隙間は開かず、いつまた雨が降るかも分からない不安定な空が天使の頭上にあった。


「こんにちは」


 そろりと近付き声をかける。彼の足元で餌を食んでいた鳥が忙しなく飛び立ったのを見終えてから、天使はゆっくりと振り返り、僕を見た。


「こんにちは。君、よく来るね」

「暇なので……」


 また安全地帯に戻って来た天使は眠たそうに欠伸をする。退屈そうにも、呆れているようにも見えてしまう。じとりとした湿気にも負けない天使の髪は、先日よりもふわりと浮かぶように見え、その神秘さが増しているように感じられた。

 天使はやはり、前に会った時のように鳥が羽ばたいていった先を見つめる。その横顔が寂しそうにも見え、喉が詰まるような感覚に襲われた。人の憂いを帯びたような表情を見る時、いつも己の首を絞められるような強い苦痛を抱いてしまう。じりじりと、喉笛が焼けるような感覚すらある。


「真魚君は何しにこんな廃墟に? 取り壊しまで立ち入り禁止にするってなってた気がするんだけど」


 疑問を呈した天使への返事に窮する。新校舎へ移設されて二年が経った。新校舎への移設に合わせて制服も切り替わり、現二年生からはブレザータイプのものとなった。三年生までは学ランを使用していることもあり、現在の一年生まではブレザーでも学ランでも、好きな方を着用して良いことになっている。

 そして移設に伴い、旧校舎への立ち入りが制限された。老朽化による耐震性の問題があったため妥当な判断であった。


「それにほら、死んだ生徒の霊が出るって噂もあるんだしさ。こんなところ来ない方がいいよ」

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