てんしさまといっしょ

旧校舎の天使 ①

 空に一番近いところを目指したくなる。隔たりのない広い空を求め、何度空の画像を検索したことだろう。季節や時間、湿度や天気、小さな要素が作用して、さまざまな表情を見せる空。空に恋をしていた。視界いっぱいに広がる空を見つめる時、胸いっぱいに息を吸い込むことがある。その日、その瞬間の空で自分を満たすように。

 空をいっぱいに満たすための場所は、決まって旧校舎の屋上だった。放課後、生徒がまばらになった教室を後にする。陸上部やサッカー部、野球部などの運動部が汗を流す、青春が積もるグラウンド。背の高いフェンスで守られたグラウンドの奥に、二年前まで使われていた旧校舎があった。手入れされず、人もほとんど踏み入れない旧校舎の周辺は、伸び放題の雑草が目立つ。剪定されていない木々が、わずかだが不気味さを演出していた。


 誰がやったか知らないが生徒玄関の窓は割られ、施錠は外されている。そのおかげで旧校舎に入ることができるわけだけれど、ひっそりと佇む人気のない校舎ほど気持ち悪いものはなかった。

 昨年まで使われていた旧校舎。生徒玄関を入ってすぐの掲示板には夏期講習や補修の連絡、学校だよりが今も誰かに向けて掲示されている。生徒の声が無いだけで、まだこの校舎には青春が詰め込まれていた。針の止まった時計と目が合う。黒々とした口を開け、獲物を狙っているようにも見えるトイレの入口。一つの不安は、大きな恐怖を連れ立ってくる。

 中央階段を上がる。体動による風で埃が舞い上がった。窓から射し込む日光を受け、霞のようなきらめきが発生する。意図して呼吸を止め、埃を吸い込まないようにして屋上を目指す。一度ひどく咳込んだことがあった。静寂を決め込む校舎に響き渡った咳嗽。誰もいない校舎であるのに、誰かに聞かれていたような気がして込み上げる恥ずかしさに体が熱くなったことを覚えている。

 屋上に至る鍵も壊され、というよりは扉自体が変形し、扉を閉じることは叶わない。最近降った雨のせいで扉前の踊り場は濡れている。雨水に捉えられた埃の一部が、床にべとりと張り付いていた。冷たい扉に手を当て、ゆっくりと押す。金属が軋んだ音を立てて開き、生温い風が逃げ込むように室内に吹いた。舞い上がる埃に細めた目。その奥、転落防止柵の向こう側、一人の生徒の姿があった。


「何してるんですか!」


 出したことのない大きな声が出る。ほとんど衝動的に駆け出していた。


「そんな所いたら落ちちゃいますよ!?」


 フェンスに掴まり、男子生徒に声をかける。衝撃を受けたフェンスは、ガシャンと鈍い音を立てた。


「ちょっと! 何か言ったらどうです!? 危ないですって!」


 一羽の鳥が彼の許から飛び立った。ここまで人を必死にさせておきながら、フェンス越しの生徒は何も言わない。それどころか振り返りもせず、ただ姿を小さくする鳥を見続けているようだった。もし急に突風が吹いたなら、目の前にいるこの男子生徒が屋上から滑り落ちてしまうようなら、僕がフェンス越しの彼を見つけてしまったことや旧校舎にもぐりこんでいる事実に苦しまされてしまう。

 ちょっと、と再度言いかけた時、彼がようやく振り向いた。必死でよく見ていなかったが、制服は昨年まで使われていた黒の学ランで、彼が先輩であることが分かる。光を受けて明るく光る茶色の髪、吸い込まれそうになる瞳。彼の奥に見える日の梯子も相まって、彼が天使のような神秘的な存在に感じられた。


「――天使」


 彼の姿は神々しく見え、無意識にそんな言葉が出てしまった。晴れやかに破顔した彼を見つめて続けてしまうほどに、彼は言葉通り天使のようだった。

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