ひとなつの恋 ⑧
制服がしわにならないようにハンガーに掛け、クローゼットへしまう。そのまま、数週間前に取り出した蝶の標本を段ボール箱から救出する。一番きれいな瞬間を切り取った蝶の標本。当時は先生が持っていたから欲しがっただけであるが、今はその美しさに心が奪われそうになっている。
蝶としてのアイデンティティが閉じ込められた小さな箱を、学習机の隅へ飾る。外で見たインターネットの記事では、蝶は蛹となり冬を越すとあった。冬と手を取り合って歩く春が嫌いだ。けれど、春は冬の手を取っているわけではないのかもしれない。春は別れと出会いの季節とよく言われる。春は冬からの自立を目指しているのだろうか。
五月になっても春は冬の名残を抱えている。春の陽気の中、日陰でひっそりと残り続ける雪。嫌いだけれど、純粋にその季節が嫌いというよりも同族嫌悪に近いものだった。なんてことない顔をして過ごしていても、表に出さないところで面倒くさい感情を隠している。溶けて消えたように見せかけて、日陰を見ていないだけ。
認めるのは僕自身の弱さを見つめることになってしまうから、春を考えることが嫌いだった。春の写真には蝶が載る。桜や青空と共に、優雅に舞う蝶が映っていることが多い。蝶の姿は、春の象徴なのかもしれない。春かぁ。一人の空間でそう呟いても、物哀しい響きが残るだけ。先生と春を迎えられたら、どれだけ幸せだろう。
やる気の出ない課題をこなし二三時を三〇分も過ぎた頃、父の帰宅の音が聞こえた。ほとんど同時に集中が切れるが、残りの数問をなんとか解く。階下からのテレビニュースらしき音を聴きながら、椅子に掛けたまま体を天井へと伸ばす。眠気と疲れが欠伸として現れ、そろそろ休んだ方がいいと警鐘を鳴らす。
カーテンを開けたままだった窓には、眠たそうな顔をしたスウェット姿の男が映っていた。瞼が落ちそうになりながら、また、欠伸を一つする。
「遥樹ぃー。まだ起きてるかー」
「もう寝るけどなんか用―」
興奮した父の声に、扉を開けて返事をする。
「外見てごらーん、雪、降って来たぞー」
冬が来ちゃうなぁ、と心底嫌そうな父の声が聴こえた。
窓の外では蝶のようにひらめく雪が、深い黒の中を楽しげに踊る。今は少し、冬の訪れが楽しみだ。
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